「……ッ!」
ルクレティアの目の前で、赤い液体が飛び散る。視界の先でシオンがガクン、と膝を折った。彼の右膝を掠めた銃弾が、水晶に穴を穿つ。
「シオンっ!」
血の滴る膝を抑えて蹲るシオンに慌てて駆け寄ろうとすると、
「動かないでくれ、ルクレティア」
背後からかかった低音の少女の声音は、ルクレティアにとっては聞き覚えがあり、嬉しいもの。けれど。
「ロゼリア……?」
振り返ると、水晶の陰から現れたロゼリアがシオンへ二丁の拳銃を突きつけていた。
そして、彼女は一人ではない。その背後には、水晶に背を預ける格好で大柄の男が立っていた。見覚えのある顔に息を呑む。あの露店でロゼリアに意地悪をした店主だったからだ。
戸惑うルクレティアを置き去りに、ロゼリアは左手に構えていた黒光りする銃を腰のホルスターへとしまい、銀色の銃口はそのままに、金緑の瞳でシオンを鋭く睨んだ。
「シオン・スタンフォード、あなたもだ。動けば、次はかすり傷ではすまなくなるぞ」
「……一体、何を言ってるの? ロゼリア……?」
なぜ彼女がここにいるのか。どうしてシオンを撃ったりしたのか。目まぐるしい状況に頭が追いつかない。
「ルクレティア。魂の竜を拾って私のところまで来い」
「え……?」
撃たれた際に落としたのか、赤い譜面石がルクレティアのブーツの先に転がっていた。その視線を追ったシオンが、脂汗の滲む顔に納得の色を浮かべる。
「……そういうこと。君の目的は最初から魂の竜か。その為に僕らに近づいたんだね。あの揉め事も手の込んだ芝居ってこと……」
「察しがよくて助かる。あなたはやはり頭の回転が速いようだ」
感心したように呟いたロゼリアが、ルクレティアを見つめてくる。
「何をしている? 私の指示が聞こえなかったのか? 早くその石をこちらへ」
譜面石を拾い上げたルクレティアは手の中の紅い輝きを前に、途方に暮れてしまう。指示に従えば魂の竜を失ってしまう。けれどこのままではシオンの命が危ないのだ。
どうすればいいのかわからずにシオンを振り返ると、彼は緩く首を横に振る。それから、ロゼリアからは見えないように左腕を背後に回し、その指先が転がった剣を指し示した。距離はシオンの方が近いけれど、拾い上げるには三歩分ほど距離がある。
じっと見上げてくる翡翠の瞳が何を訴えているのかわかった。もう一人の男は丸腰で傍観しているし、とにかくロゼリアの気をそらしてくれ、ということだろう。
石を握り締め、ルクレティアはゆっくりとロゼリアとの距離を詰めた。
「どうしてこんなことをするの? 生贄の問題は片付いたわ。ロゼリアのお姉さんだって……」
「姉さまはもういない。茶番はここまでだ」
シオンに視線を向けたままそっけなく返された答えに、ルクレティアは驚きから足を止めた。
――もういない? それはつまり。
思考は、次の言葉で更に麻痺した。ロゼリアは冷めた目でシオンを見下して、吐き捨てるように言う。
「シオン・スタンフォード。あなたの行いを、私は心から軽蔑する。あなたのしていることは人の命を弄ぶ、あの忌まわしい竜どもと同じだ」
侮蔑を含んだ眼差しを向けられたシオンは、はっとしたような顔になる。
「もしかして、君……」
言いかけたシオンが、眩暈に襲われたかのようにふらりとよろけ、右手を地面に着いた。
「シオンっ?」
反射的に駆け寄ろうとすると、銃声と共に足下に銃弾が跳ねた。当たったところでルクレティアは痛みを感じないし、聖術で簡単に怪我が治る。しかし、シオンはそうもいかない。
駆け寄ることも、さりとてロゼリアへ魂の竜を渡すこともできず、ルクレティアはもうどうしていいのかわからなかった。
膝の傷は素人目で見ても浅い。けれどシオンの様子はただ撃たれたにしては明らかにおかしかった。呼吸が不規則で、その顔には汗が滲んでいる。
「シオン……っ」
呼びかけると、浅く息を吐いたシオンが顔を上げ、弱々しく笑みを浮かべた。それから何事かを言いかけ、けれど意識が遠のいたように彼はその場に倒れ伏してしまった。
「シオン……っ? シオンっ」
呼びかけても、彼は返事をしてくれない。ぐったりと意識を失ったまま柔らかな金髪を地面に散らしている。
ぐい、と後ろから腕を引かれた。振り返ると、ロゼリアの冷たい眼差しと目が合う。
「心配しなくとも、弾に仕込んだ麻酔で意識を失っただけだ。命に別状はない。今のところは、な。だがあなたが抵抗するなら話は変わる。大人しくついて来てくれるな、ルクレティア?」
意識を失ったシオンを前に、ルクレティアに選択肢はなかった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ヴェルスーズから二キロほどの距離に漂う浮島にぽつんと佇む、月明かりに照らされた館。その一室で、繊細なピアノの音が響いていた。鍵盤を柔らかく撫でる指先が奏でる旋律はとても優しい。
「それは、何ていう曲?」
尋ねたのはソファに腰掛け、肩まで伸びた桃色の髪をヘッドドレスで飾った愛くるしい少女。年齢は十代半ばほど。青いドレスに包まれたその見た目は、精巧に作られた人形のよう。
「特に考えてない。気になるのならお前が勝手に付けろ」
答えたのは、ゆるやかに波打つ黒髪を肩まで伸ばした青年。左目を覆う黒い眼帯が目立つけれど、それ以上に人目を引く涼しげな美貌。鍵盤に向かうその姿は細身ながらもしっかりとした体格で、物腰には隙がない。そして、所作一つ一つにどこか優雅さを感じさせた。
そっけない返事にめげることなく、少女は若葉色の大きな瞳をきらめかせた。
「リッくんってば他力本願〜。じゃあじゃあ、『猫さんが寝転んだ〜』」
美しい黒曜石の瞳に不服の色が浮かぶ。彫刻のように端正な青年の顔には表情というものが薄いのだけれど、存外その瞳は雄弁なのだ。もっともそれは付き合いの長い少女にとっては、だけれども。
冗談なのに、と頬を膨らませつつ、物言いたげに見つめてくる眼差しがあまりにも冷めているので慌てて話題をそらす。
「え〜と。あ、ほらリッくん! 見てみて、ほらほら。月の色が戻ったわ」
たっぷりのフリルで飾られたスカートを揺らして立ち上がり、カーテンを開けて窓を覗くと夜空に浮かぶまん丸の月は黄金色に。つい先ほどまでの不吉さが嘘のように煌々と空の世界を照らしている。
「……空の竜の調律師が魂の竜を手に入れたんだろう」
「長年の悲願がようやく叶う第一歩ってことよね? 魂の竜も空の竜もこれで満足かしら?」
「……そうでもないだろう。フェリシアが居ないのは七神竜にとっては大きな誤算だ」
本来、眠りについている七神竜を目覚めさせるのはスタンフォードの長子とフェリシアの役目だったのだ。それは、空の世界の創世の時に定められたこと。しかし、彼女はいない。その原因は当代のスタンフォードの長子にある。
「うーん。空の人は何を考えていたのかしら? 誤算? それとも故意?」
「さあな。それをこれから確かめる」
「ロゼリアたち、うまくやれてると思う? ちゃんと連れて来てくれるかしら?」
「定められた因果に基づいて俺とお前で書いた台本を読むだけの茶番だ。そんなもの、猿でもできる」
「ロゼリアは復讐のことで頭がいっぱいなんだもの。お猿さんよりもタンサイボーかもしれないわ」
五年前に彼女を助けたときの光景を脳裏に描いた少女は、歩み寄ってきた青年の顔を見上げる。
「どうするの、リッくん?」
「決めるのは俺ではない。空の調律師だ」
案の定の答えに少女はぽふん、っと青年の身体にもたれかかり、
「リッくんの他力本願め〜」
「ヴェルスーズの風習も帝国の役目も俺たちには他人事だろう。そのツケが近いうちに巡ってくるだけの話だ。他力本願とは言わない」
「うん? わたしたちの目的は世界を救うことじゃなかった?」
「誰が、いつ、そんな夢を見た。曲解し過ぎだ」
「でもでも、大雑把にまとめるとそーいうことにならない? なると思うわ。うん。なるなる〜」
少女が無邪気に笑うと、青年は大きくため息を吐く。呆れて仕方がないというように。
「お前と話していると疲れる」
「またまたそんなこと言って〜。リッくんは、わたしが好きでしょー?」
「……そろそろ刻限だ。行くぞ、レト」
あ、誤魔化したわ、と思いながらもこれ以上ふざけると小突かれそうなので、少女は元気よく返事をした。
「はーい。それじゃあ、お出迎えに行きましょう〜。リッくんと同じく称号を与えられた調律師さんと、失敗作のお人形さんに会うためにわざわざヴェルスーズまで来たんだものね」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!