――一夜明け。
失礼に当たらないギリギリの朝にシオンは宮殿を訪れ、アウレラと話をした。話し合いは予想したとおりすんなり進み、彼女はヴェルスーズの重鎮たちへの説得、それから住民を地下のシェルターへ避難させることを約束してくれた。
幻妖種が襲ってくる、なんて素直に話せば市民の混乱を招くだけ。恐慌状態に陥らせるような事態にならないよう、適当な理由を付けて避難させる形を取ることにするそうだ。市民は何も知らずに事態は進む。生贄の件と同じように。それを欺瞞だとは責められない。
そして現在、シオンはルクシーレの西。帝国兵が常駐している詰所を訪れていた。石造りの無骨な外壁に囲まれた楼閣の中は、甲冑を纏った兵士が並び立ち、粗っぽさと剣呑さに満ちていた。
シオンはこれからこの施設の最高責任者に掛け合い、どんな状況になっても手を出さないように説得しなくてはならない。アウレラが協力してくれるのは、あくまでヴェルスーズの軍の横槍を留めることだけ。帝国兵の指揮系統は当然アウレラに権限などなく、責任者に話をつける必要がある。
女王からの紹介状を渡し、衛兵に案内されたのは指令室だった。シオンを出迎えたのは、壮年の男。
ダリル・ハーネスト少将。帝国での爵位は伯爵だとアウレラから聞いているが、輝かしい経歴を持つ貴族が空の世界に配備されることはない。帝国兵にとって空での仕事は閑職のようなもの。爵位など飾り同然だ。
「お初にお目にかかる、空の調律師殿」
執務机から立ち上がることすらせずに、将軍は慇懃にそう言った。シオンが会釈を返すと、ひらりと書状を掲げて見せてくる。
「陛下からの書状は確認した。正直なところ、俄かには信じがたい話だ」
書状には、二日後に幻竜がルクシーレを襲う可能性が高いこと。幻竜の討伐は空の調律師が請け負うため、帝国軍の介入は遠慮したい、という内容が書かれている。
「幻竜など、空想に近い種。それが街を襲うなど、あり得ん話だ。そもそもが、いくら国家資格を与えられているとはいえ、なぜ調律師がこの国の大事に関わる?」
どうやら将軍はシオンの素性には気づいていないらしい。スタンフォードという姓から気づかれてもおかしくないと思っていたのだけれど。鋭い眼差しに、怯んだら負けだと己に言い聞かせ、シオンは微笑む。
「誤解があるようです。将軍。僕は今日、調律師としてあなたに会いに来たわけではありません。帝国の人間として、言葉を交わしに来ました」
「帝国の?」
右手の人差し指に嵌った指輪を掲げてみせる。獅子が印刻された紋章指輪が示す意味は、流石にわかるだろう。
「スタンフォード公爵家の……っ!」
スタンフォード家は皇帝以上に尊ばれる至高の血族。権威をふりかざす行為はシオンの好むところではないけれど、事態が事態なだけに手段は選んでいられない。利用できるものを使わない手はなかった。
「なぜ、スタンフォードの嫡子が空に……?」
どうやらシオンの出奔は空までは伝わっていないらしい。
スタンフォードとレンハイムの血が尊ばれるのは、空の竜に愛された一族だとされているからだ。神の寵愛を受ける血族に敬意を抱くのに、理屈など必要ない。両者の家系がなぜ存在し、何をしているのか。その仔細を知る者は少ない。
それでも警備の隙を突き、無断でルクレティアを連れ出したシオンだ。指名手配されてもおかしくはないと思っていたのだけれど、皇帝は予想以上に慎重になっているみたいだ。
帝国はフェリシアの覚醒を悲願に掲げているけれど、神曲聖歌の真実は知らない。だからシオンがフェリシアと聖歌を集めることは帝国にとって都合がいいということに気づいていない。
それでも大々的に二人を捜索しないのは、シオンを警戒しているからだろう。
どんな聖術でも創れるシオンと音域の範囲内であれば階位に関係なく聖歌を歌えるルクレティアという組み合わせは、非常に凶悪だ。
シオンも詳しくは知らないが、神曲聖歌の真実も、目醒めたフェリシアがスタンフォードの長子とともに神曲聖歌を回収することも、すべてフェリシア本人が帝国に伝える算段だったのではないかと思う。彼女が帝国で目醒めなかったから、あやふやなまま計画が頓挫し、現在に至っているのだろう。
「僕がここにいるのは、空の竜の意志に基づいてのことです」
驚きに眼を瞠る将軍に、シオンは強く言う。
「幻竜の件を信じてもらえないのでしたら、それでも構いません。事実であろうとなかろうと、帝国兵にはこの先起こることに傍観者でいて欲しい。それだけです」
「信じがたい話だが。もし貴殿の言うように幻竜とやらが現れたとして、竜が街を蹂躙するのを見過ごせと?」
「書状にあるとおり、アウレラさまからの了承は得ています」
「無理な相談ですな。スタンフォード公の倅には申し訳ないが、私が仕えているのは皇帝陛下ただお一人。陛下にご報告し、指示を仰がねばならん」
機械技術が発達したとはいえ、地上との連絡は通信機器では不可能。口伝しかあり得ない。つまり、遠回しに聞く耳を持つつもりはない、と言っているのだ。
「時間がないんです。貴方に判断してもらいたい」
「私は一軍人だ。そのような権限は持ち合わせてはいない」
頑なな将軍に、シオンは首をかしげる。
「……スタンフォード家がどうして尊ばれるのか、将軍はご存知ですか?」
髭を蓄えたその口が開く前に、続ける。
「皇帝ですら僕の意向は蔑ろにはできません。なぜなら、僕はその気になれば帝国を滅ぼすこともできるから。僕に創れない聖歌はありません」
自信たっぷりに微笑んでみせる。実際にはそんな聖歌、作れはしない。だが、そのことは目の前の男にはわからない。ただ、スタンフォードの調律の才か、空の称号の噂くらいは聞いて居るはず。ハッタリでも信じ込ませることは難しくない。
従わないなら帝国を滅ぼす。
そんなシオンの脅しに将軍の瞳が剣呑なものになる。
「栄えあるスタンフォード公爵家のご子息とはいえ、看過できかねる発言ですな。祖国に牙を剥《む》くというのであれば、拘束させていただく」
入口に立っていた兵士が銃口を持ち上げるが、シオンは顔色を変えることなく続ける。
「僕には聖歌を扱える連れが居ます。僕が戻らなければ、帝国がどうなるか……」
何から何まで嘘だけれど、不敵な笑みを繕えば、将軍は歯噛みする。
「……このようなこと、お父上が知ればさぞ嘆かれるでしょうな」
ほとんど顔を合わせたこともない父親の話を出されても、シオンは感想に困ってしまう。シオンが心を通わせてきたのは、幼馴染の少女だけ。狭い箱庭で育ったシオンだから、愛国心なんて持ち合わせていないし、動揺することもない。
「街が多少の被害を被っても、帝国の損害にはならない。少しの時間、目を瞑ってくれるだけでいいんです」
詰所が真っ先に襲われたら目も当てられないけれど。その可能性はみじんもあり得ません、という顔でやり過ごしておく。
「僕が事態を収拾できなければ、そのときはどうぞ、将軍のお好きになさってください」
ふた回りは年上だろう男に向けて、シオンはそう締め括った。
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