何を言われたのか、よく、わからなかった。
理解が追いつかず、頭のなかでぐるぐると渦巻く言葉にまず疑問に思ったのは――。
「シオンは、フェリシアさんを殺してしまった、って――」
ロゼリアの瞳がすっと細められた。
「帝国の名門レンハイム家の長女には代々フェリシアという名を与える習わしがある。シオン・スタンフォードが殺したと言ったのは、創造の書を歌う儀式に臨んだ当代のフェリシアのことだろう」
あ、と思った。シオンのこれまでの言動が腑に落ちたからだ。
シオンはフェリシアという名を嫌いだと言っていた。大切な人のはずなのにどうしてそんなことを言うのだろうと疑問に思っていたけれど、彼はおそらく創世に携わったフェリシアのことを嫌いだと言っていたのだ。
「ルクレティア。あなたはこのオルラントにおける魂の概念を知っているだろうか?」
「七柱聖教の教えなら、本で読んだことがあるわ」
オルラントにおける魂の概念は宗教によって異なる。ルクレティアが知っているのは、帝国で浸透している七柱聖教の考え方だ。
人は魂と肉体からなる。死を迎えると体は土に還り、魂は七神竜の座す聖界へと送られる。そして七神竜の一柱たる豊穣の竜の慈悲の下に魂を浄化され、再び新たな命を得てオルラントへ生を受ける、とされている。
「知っているのなら、少しは想像しやすいかもしれない。空の世界の創世に携わったフェリシアは空の竜の力によって死を迎えることなくその魂を楽譜へと封じられ、眠りについた」
ロゼリアの話は、淀みなく続いていく。
「創造の書は歌い手の死を待つことなく魂を強制的に聖界へと送り、抜け殻となった肉体を創り変える聖術だ。前者はフェリシアの魂を定着させるために。後者は神曲聖歌の強い負荷に耐えられるように」
それが、器を完成させる、ということなのだろうか。ロゼリアの言葉を必死に頭の中で噛み砕きながら、ルクレティアはおずおずと尋ねる。
「そのお話と、シオンがわたしを利用しているっていうのは、どう関係があるの……?」
「おかしいとは思わないか? レンハイムの長女は代々終末の書を歌うのが務めだった。だというのに、帝国はその役目をあなたに押し付けた」
ロゼリアの言う通り、フェリシアがいるのなら帝国がルクレティアという機械人形を創る必要などない。
「答えは簡単だ。儀式は失敗した」
憐憫の眼差しが、ルクレティアを射抜く。
「そして、その結果生まれたのがあなただ、ルクレティア」
「え……?」
「シオン・スタンフォードは創世の時代より誰もなし得なかった創造の書の創作を成し遂げた。だが、フェリシアの魂は定着こそすれ、その意識は覚醒しなかった。儀式で完成したのは終末の書さえ歌えなくなった人形。それがあなただ、ルクレティア」
――それはつまり。ルクレティアが目を瞠ると、ロゼリアの同情するような瞳の色が深くなった。
「あなたは儀式の失敗によって芽生えた、フェリシアが覚醒するまでの繋ぎの人格。肉体を動かすためだけに生まれた自我だ。計画に携わった帝国の誰もがあなたが消え去り、フェリシアが目覚めることを望んでいる。無論、シオン・スタンフォードも含めて、だ」
――消えるためにルクレティアという人格が存在する。
ロゼリアの言いたいことは、存外にあっけなく察せた。
そうだ。帝国でルクレティアの自我は消される寸前だった。終末の書が歌えないから。そう言われたけれど、実際にはフェリシアを覚醒させるための方便だったのかもしれない。
でも、そうはならなかった。それは他の誰でもないシオンが、あの地下部屋から連れ出してくれたから。
「わたしを帝国から連れ出してくれたのはシオンよ。シオンは……そんなこと、思ってないわ」
「フェリシアが目覚めなかったことは空の竜にとって大きな誤算だった。そこで竜は考えた。シオン・スタンフォードの旅にあなたを同行させ、監視させればいいと。フェリシアの魂は覚醒こそしなかったが、あなたの中で眠っている。些細なきっかけで目覚める可能性は高い。あの男があなたを連れ出したのは、空の竜の意志に基づいた結果だ」
ロゼリアの冷ややかな、突き放すような台詞。ルクレティアはシオンと初めて出会った日のことを思い出す。
あの日、彼は言った。
ルクレティアがルクレティアでなくなってしまったら、きっとその選択を後悔する、と。
そんな彼が、ルクレティアが消えることを望んでいるとは考えられなかった。
しかし、シオンに告げられた言葉は他にもある。
――あの部屋を出てから、僕が君に嘘をついたことはないよ。
それなら、あの言葉は偽りだったのかもしれない。
ロゼリアの言うとおり、空の竜の意に従ってルクレティアを連れ出したのだろうか。フェリシアの覚醒を促すために。
ロゼリアは最初に、創世の時代のフェリシアのことを神曲聖歌の無二の歌い手と評した。それはつまり、完成した神曲聖歌はそのフェリシアにしか歌えないということだろう。
シオンは神曲聖歌を完成させるために旅をしている。彼の悲願を達成するためにはフェリシアの覚醒は必須だ。
それに、ロゼリアの話が真実ならばこの肉体は元々はシオンが大切に想っていた女の子のもの、ということになる。シオンは、ルクレティアを見てどんな感情を抱いていたのだろう。
帝国で向けられた、たくさんの失望の眼差し。ルクレティアが終末の書を歌えないと知ると、みな一様にがっかりしていた。シオンも、本心ではそう思っていたのだろうか。
大切な人を犠牲にして。完成したのは役立たずの人形。
シオンは、ルクレティアを見るたびに悲しい気持ちになっていたのだろうか。だから彼は、いつもあんなに苦しそうだったのだろうか。
もしそうだとするなら、ルクレティアはシオンに申し訳なく思う。シオンの役に立てるのなら、それが帝国の人たちの望んだことなら。ルクレティアは消えてもいいと思う。
けれど。
水晶谷の後ろ暗い伝承を知ったとき、シオンはルクレティアに尋ねてきた。
ティアならどうする、と。
自分は人に尽くすために造られた人形だから、というルクレティアの答えにシオンは言った。
――君にはもっと自分を大切にして欲しい、と。
そう、言ったのだ。
どうしてスタンフォード家の長子がフェリシアの器を完成させる、なんて役目を背負っているのかは知らないけれど。帝国がなぜフェリシアの覚醒を望んでいるのか。それがどれほど大切なことなのか、ルクレティアにはわからないけれど。
シオンが、ルクレティアが消えることを心から望んでいたりするはずはない。
この旅のあいだにシオンがかけてくれた言葉を脳裏に浮かべれば、ロゼリアの言葉のすべてを鵜呑みにすることはできなかった。
こちらの反応を窺うように見つめてくる金緑の瞳に向けて、ルクレティアはやっぱり首を横に振る。
「シオンは……わたしが消えたら、悲しんでくれる。喜んだりはしないわ」
それはルクレティアの願望かもしれない。それでも、シオンの優しい言葉を。慈しんでくれる眼差しを。ルクレティアは信じたかった。
ロゼリアがかくりと首を傾げる。
「あなたが消えることをシオン・スタンフォードが望んでいないというのなら、なぜあなたを連れている? あの男は、なぜ神曲聖歌を集めようとしている?」
「それは、シオンにはどうしても叶えたいお願いがあるから――」
「それだ」
ルクレティアの返答を遮ったロゼリアの声音には愉悦があった。我が意を得たり、という顔で彼女は言う。
「それこそが、彼があなたを騙している証拠だ、ルクレティア。神曲聖歌を完成させればどんな願いでも叶う。その神話は偽りだ」
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