ルクレティアと共に宿へと戻ったシオンは、さっそく聖歌の創作へと取り掛かった。
ルクレティアが入れ直してくれた紅茶とインクの香りが混じりあった室内は静寂に満ちていて、窓から差し込む夕日で赤く染まっている。
つい数刻前までの焦りが嘘のように気持ちは落ち着いていて、 あの異常な空気の漂う洞窟内でルクレティアが聖歌に集中できるように、彼女の得意な音域、発音しやすい単語。とにかくルクレティアが少しでも歌いやすいように意識して作曲していけば、自然とペンは進んだ。
真新しいインクの独特な匂いがふわり、と香る楽譜帳のページにふ、と影が落ちた。視線を滑らせると、隣に座ったルクレティアがシオンの手元を覗き込んでいた。彼女は先程からずっと書き足されていく音符を目で追っている。
「退屈してない?」
書きあがった楽譜ならともかく、形になっていない創作途中の楽譜を眺めてもつまらないのではないだろうか。シオンの疑問に、ルクレティアはふるふると首を横に振り、にこにこと微笑む。
「見てるだけで楽しいわ」
「それならいいんだけど」
何がそんなに楽しいのかな、と内心で苦笑しつつ、また作業に戻ろうしたシオンの意識を、ルクレティアの沈んだ声音が押しとどめた。
「でも、シオン」
再び顔を上げると、ルクレティアの無邪気な笑みは困惑へと塗り替わっていた。
「洞窟にいた幻竜はどうするの? あんな風に襲われたら聖歌を歌う暇なんてないわ」
疑問は尤もだった。一度羽ペンをスタンドに立て、ソファの背もたれに体重を預けたシオンは、腕を組んで考え込む。
「そうなんだよね。昔の人たちはどうしていたんだろう……」
生贄ならば問題ないけれど、聖歌を捧げる、となると話は変わってくる。
ルクレティアが危惧するとおり幻竜の眠るあの場で聖歌を奏でるのは危険が伴う。ロゼリアのようにシルヴァリーの花粉で酔わせるにしても、生まれる隙など一瞬。聖歌を歌い終わるまでの時間を稼ぐには到底足りないだろう。
二人に容赦なく襲いかかってきた凶暴な竜の姿を思い返せば、今でも背筋が冷たくなる。
「魂の竜は神曲聖歌を守るために幻竜にあの場所を守らせていて、でも自分を目覚めさせるために聖歌を歌うように言ったのも魂の竜で……一体何を考えていたのかしら?」
「最初から目覚めるつもりがなかったと仮定するにしても、当初は魂の竜から貰った聖歌を捧げていたみたいだしね……。それに、目覚めるつもりがなかったのなら街を襲う危険がある幻竜を守護者になんてしないだろうし」
一の国に幻竜が居る、という疑問に目を瞑っても、魂の竜の考えは謎ばかり。
嘆息したシオンは、そういえば、と思い出す。
魂の竜が指定した事柄はもう一つある。竜は、赤い月が丸くなる晩に魂を捧げろ、と求めていた。よくよく考えてみれば、月が赤くなる、なんて非現実的なことだ。なぜそんな現象が起こるのだろう。
シオンは空の竜の言葉を思い返す。
――君が思うままに行動すれば、神曲聖歌はおのずと姿を見せるさ。
空の竜は確かにそう言っていた。そして飛行船を襲った幻竜のことを忘れてはいけない、とも。幻竜はとても知能が高くて、その行動にはきちんと意味がある、と。
月が赤くなる周期はまばらだけれど今回は特に短い、と女王はぼやいていた。
「……もしかして」
閃くものがあった。それは願望にも近い憶測だけれど、こと聖歌に関わる自身の勘にはシオンは自信を持っていた。
「……ティア」
「なあに、シオン」
無垢な藍の瞳をじっと見下ろす。
「ティアは聖歌だけじゃなくて、僕のことも信じてくれるかい?」
シオンの推測が正しければ、二人の不安は懸念で済む。しかし、幻竜の脅威の前で実際に聖歌を歌うのはルクレティアなのだ。シオンがそう思っていても、彼女にとっては違う。
だからそう尋ねたのだけれど、細い眉が顰められ、愛らしい顔がむっとしたようなものになった。
「えいっ」
弾かれた中指がぺしん、とシオンの額を叩いた。痺れるような地味な痛みに堪らず額を抑える。
「い、っ……何するんだよ、ティア」
非難の声を上げると、ルクレティアはふふん、と得意げに微笑んだ。
「お仕置きするときにはこうするって本で読んだの」
間違いではないけれど、ルクレティアの知識は偏りすぎている気がする。
おそらくは赤くなっているであろう額をさすりながらシオンが胡乱な面持ちになると、ルクレティアが首を傾けた。
「シオンがいけないのよ? わたし、シオンを疑ったことなんて一度もないわ。それなのに当たり前のことを訊いたりするんだもの」
真っ直ぐな言葉の中には、シオンへの揺るぎない信頼が滲んでいた。
ルクレティアはいつだってシオンを信じてくれているのに、彼女からの信頼をほんの少しでも疑うような言葉を仄めかしたシオンは、確かにお仕置きされるべきだ。
「……そうだね。今のは僕が悪い」
苦笑して、シオンはルクレティアの小さな頭へと手を伸ばす。
「幻竜の問題は、たぶん大丈夫だと思う。ティアと僕に度胸があれば、ね」
きょとん、と目を瞬かせたルクレティアの艶やかな銀髪をひと撫でして、シオンはまた未完成の楽譜へと視線を落とすのだった。
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