魂の竜は水晶谷で眠りにつく前、その魂の守り手に幻竜をお選びになりました。
賢明な魂の竜は、幻竜の知能の高さを評する一方で、その粗暴さをご案じになっておりました。
ですので、ひとりの友に聖歌をお贈りになったのです。もし守護者に悩まされることがあれば、この聖歌で我は目覚め、力を貸そう、と仰って。
魂の竜のご懸念のとおり、乱暴者の竜たちはしばらくするとまるで箍が外れたように暴れ狂い、人里を荒らしてしまいます。以来、幻竜が暴れるたびに水晶谷へと赴き、魂の竜から授かった聖歌を捧げておりました。目覚めた魂の竜が一喝すれば、幻竜たちは借りてきた猫のように大人しくなったものです。
しかし、幾夜も経たぬうちに、大変なことが起きてしまいました。
なんと、宮殿がひどい火事に見舞われ、魂の竜から託された聖歌の楽譜が燃えてしまったのです。困った王さまは焼け石に水だとご理解しながらも、街を守る頑丈な石壁を造らせ、それから、水晶谷へ使者をお送りになりました。
幸いにも最後の目覚めからそれほど時が経っておらず、眠りの浅かった魂の竜は聖歌を捧げずとも涙交じりの哀願に目を覚ましてくれました。しかし、友へ送った聖歌を失った人間に激怒した魂の竜は、こう仰いました。
――友の贈り物を汚した咎人は許しがたい。けれど、神は寛大であるべき。月が赤く染まり丸くなる晩。竜のために無垢な人身を捧げるのならば慈悲を授け、再び目覚めよう、と。
しかし、それ以降、魂の竜がお目覚めになることはありませんでした。
幸いなことに、贄を送れば幻竜は人里に降りてくることはありませんでしたので、王さまは夜な夜な生贄に差し出す高貴な娘を見繕うようになったのです。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ヴェルスーズに残された魂の竜に関する伝承は似たり寄ったりで、水晶谷以外にそれらしい竜の伝説も残されてはいなかった。
街の東に建てられた王立図書館は一般人にも立ち入りが許可されているけれど、地下に保管された資料は王宮勤めの者か調律師の国家資格を持つ者だけが閲覧を許されていた。
入口の司書に身分証を提示した際に女王から何かしらのお触れが出ているかもしれないと身構えていたのだけれど、シオンの立ち入りはあっさりと許可された。
地下の利用者はシオンひとりで、司書以外には誰もおらず、ただただ静寂のみが広がっていた。
薄い橙の明かりに照らされた館内は、埃とインクの匂いが染みついていた。壁際に並んだテーブルにめぼしい書物を山と積んだ傍らで、シオンはひとり嘆息する。
ルクレティアにはロゼリアと宿で待機してもらっている。
ふたりは地下には入れないし、上階には大した資料はないとロゼリアが教えてくれたので、暇を持て余すのはかわいそうだと思い、シオンがひとりで調べることにしたのだ。
朝からざっと五時間ほどこもっていたけれど、成果は芳しくない。資料はすべてオルラントの公用語であるヴェルセーヌ語で記されていたから、読むのに苦労はしなかった。しかし、書かれていることは文章の多少の違いはあれど物語に大きな違いはない。
なぜ魂の竜が幻竜を守護者としたのか。どうして贄を捧げても目覚めないのか。肝心なことは何ひとつ書かれてはいなかった。
「弱ったなあ……儀式の日まであと七日しかないって言うのに」
当初の予定とは異なり、明確に時間制限を設けられてしまったために、気持ちばかりが逸っていく。
「エーテル場でも聖術が使えたら幻竜だって倒せるだろうし、あの場所を調べることもできるんだけどな……」
いくらルクレティアでも、あれだけ濃度の濃い場でエーテルに感応するのは無理だろう。
味覚や痛覚といった一部の感覚を欠落している彼女は、代わりにエーテルへの感応度が優れているけれど、無茶振りが過ぎるだろう。
九百年秘匿されてきた聖歌を見つけることなんて、やはり無理なのだろうか。
早くも行き詰まってしまって、シオンはため息を零してしまう。
――シオンは、神曲聖歌に興味はないの?
ふと脳裏を過ぎったのは、随分と昔に聞いた、ある少女の言葉。
――わたしが聞いてみたいって言ったら、どう? 探してくれる?
あの日の期待に満ちた瞳は、五年の年月が経った今でも、鮮明に思い描ける。彼女がシオンを見たら何を言うのだろう。情けないと呆れるか、しっかりしろ、と叱咤するのか。
「……どれでもない、かな」
詮無いことを考えてしまい、シオンはそっと苦笑する。帝国で籠の鳥だった頃、シオンのすべては彼女のためにあった。
そして、現在もそれは変わっていない。
昨夜の悪夢のように、思い出しくないことだってあるけれど。物心つく前からずっと一緒に過ごしてきて。シオンに無邪気に笑いかけてくれた女の子と過ごした日々は、何にも代えがたいもの。どうあっても、捨てられないのだ。だからシオンは今、したくもない宝探しをさせられている。
資料を洗っても答えが出ないのならば、推測していくしかないだろう。そもそも、なぜ魂の竜は幻妖種を守護者としたのか。
確かにいたずらに水晶谷から出ずに贄を待つ幻竜は他の幻妖種に比べて知恵があるのだろう。魂の竜の力がどのようなものかは知らないが、神の力の一端である以上人の身には過ぎたもの。悪用されないように幻竜に守らせるのは理解に苦しむが、理屈としてはわからないでもない。
空の竜は魂の竜は幻妖種に関わりがある力だと言っていたし、何か因果関係があるのだろう。
「……やっぱり、魂の竜を目覚めさせないと答えは出ないのかな」
あの洞窟に魂の竜らしき竜はいなかったけれど、条件を満たせば姿を現してくれるのかもしれない。
空の竜はスタンフォードの長子の夢に現れ、終末の書を託すのだ。そうして長い歴史の中で帝国は神曲聖歌を守り続けてきた。
魂の竜も同じこと。空の竜と違って今は眠っているけれど、目覚めればその力を託すように交渉することはできるはず。
生贄という制度が実在し、水晶谷の異常性を見るにヴェルスーズの伝承は信憑性がある。
生贄を求めておきながら、目覚めない魂の竜。その謎を解き、魂の竜を目覚めさせることが神曲聖歌を手に入れる唯一の手段なのだろう。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!