レトから聞いた部屋の扉を開けた瞬間、シオンは我が目を疑った。
「一体、何が……」
飛び込んだ部屋は半壊状態だった。天井には大穴が空き、崩落した瓦礫によって床が抜けたのか、中央にぽっかりと穴が空いている。入口から見て正面の壁も半壊していて、館を囲う大木が丸見え。柔らかな朝の日差しが、風で舞い上がる埃をキラキラと輝かせていた。
頭上を振り仰ぐと、館の屋根を止まり木にしてこちらを睥睨する竜の姿があった。青空に鮮やかに浮かび上がる真紅の鱗。
「幻竜……?」
――どうしてこんなところに?
剣を構えるも、竜は襲ってくる気配はない。黄緑の瞳が鋭く細まるだけ。
一体何が起きたのか。辺りを注意深く見回していると、部屋の端に立つ見慣れた少女の後ろ姿に気づいた。
「ティアっ!」
穴を迂回して駆け寄ると、銀髪がふわりと躍る。視線が絡んだ。瑠璃色の双眸がきょとん、と瞬くその仕草に。
シオンはあ、と思った。
言葉では説明できない些細な違和感が脳内を駆け巡る。本能が訴えかけてくるのだ。違う、と。
「……フェリシア」
シオンが確信を持ってその魂に名を刻むと、少女――フェリシアは大きな瞳をパチリと瞬かせた。
「空の竜の気配がする。スタンフォードの後継者ね。よかった。姿が見えないから心配していたの。神曲聖歌を完成させるには、スタンフォードの力は必要だもの」
見た目はルクレティア。けれど、発せられる台詞。ふわりと微笑む仕草。そのどれもがまったく違う。魂なんてものが真実存在するのか、その答えを知る人間はきっと居はしない。だが、間違いなく目の前の少女はルクレティアとは別人だった。
「どうして、君が……?」
離れていたわずかなあいだに何が起きたのか。どうして帝国では覚醒しなかったフェリシアの意識がここにきて目醒めたのか。
困惑するシオンの視界に蝙蝠めいた小さな翼がぱたりと泳ぐ。ふわふわと両者のあいだに割って入った魂の竜が、大きな目をきらめかせた。
「お人形が創造の書を歌ったのさ。帝国のときと違ってオイラが側にいたから、きっとフェリシアの魂が共鳴して起きてくれたんだよお〜」
魂の竜は心の底から嬉しそうに、そんなことを言う。七神竜にとってそれだけフェリシアは特別で、心を寄せる存在なのだろう。類まれなる歌声を有しているからか。それとも魂そのものが美しいのか。理由は知らない。けれど、シオンにとっては。
「スタンフォードの後継者。あなたのお名前は?」
魂の竜を腕に抱き、どこか嬉しそうに。弾んだ声音でフェリシアが首を傾げた。
――だあれ?
同じ意味を持つ台詞を、聞いたことがある。地下部屋に幽閉されているルクレティアに会いに行ったとき。彼女にそう訊ねられた。
無垢な藍色の双眸が不思議そうにだあれ、と問い掛けてきたとき。シオンは堪らなく苦しくて、泣きたくなるくらい悲しかった。今は違う。目を離してしまった後悔は強いけれど、胸が詰まるような切なさはない。
「僕はシオン。シオン・スタンフォード」
「……シオン。綺麗な名前ね」
はにかんだように微笑むフェリシアの仕草に、シオンは罪悪感を抱く。もしかすると、フェリシアは彼とさほど変わらない年齢なのかもしれない。オルラントを救う宿命を背負って眠っていた少女。
クロークの袖を揺らして、フェリシアが右手を差し伸べてきた。
「シオン。これからよろしくね」
向けられる親愛の眼差し。差し出された小さな手のひら。スタンフォードの長子として受け止めるべきものを順に見つめ。
シオンは、首を横に振った。
「……ごめん。僕は、君の手は取れない」
「え?」
目を瞠るフェリシアの反応に、胸が痛む。この子は何も悪くない。これは、シオンの都合なのだ。
「僕が一緒に旅をしたいのは、君じゃないんだ」
愛らしい顔に困惑が滲む。
「何を言っているの? 空で眠る神竜を目覚めさせて神曲聖歌を完成させるのがスタンフォードの後継者の役目。完成した神曲聖歌を歌うのが、わたしの務め。そう教わらなかった?」
「わかってる。神曲聖歌は完成させるよ。でも――」
「ロゼリアっ!!」
男の叫びがふたりの問答を断ち切った。
駆け込んできたのは、ロゼリアの仲間らしき男。露店での嫌味な態度が印象に強いが、厳しい顔は今は真っ青になっていた。
「何てこった! 本当に変異してやがる……っ!」
男の嘆きに、シオンは耳を疑った。この部屋にはロゼリアとルクレティアがいたはず。だが、ロゼリアの姿はどこにもない。そして男はロゼリア、と呼び掛けた。更に変異という単語。
シオンの背筋を冷たい汗が伝う。
――人が、幻妖種に?
翼を折り畳み、竜が木々をなぎ倒して着地すると、その背はちょうどシオンたちがいる部屋の高さになる。
シオンの動揺に気づいたのか、フェリシアが眉をひそめた。
「もしかして、あなたの知り合いだった? 魂の竜にはね、対象の遺伝子を操作する力があるんだけど……。浴びるエーテルが濃すぎて、人間はたいてい幻妖種になっちゃうの。でもね、幻妖種に聞かせると便利なのよ? 存在を消滅させたり、意識を操作したり。色々できるわ」
シオンが青褪めると、フェリシアは大人びた笑みを浮かべた。あどけなさを残す容貌には不釣り合いな、達観した微笑で。
「でも安心して。オルラントの幻妖種で元が人間なのはほんの一握りよ。幻妖種は人を襲うばけもの。その認識は正しいわ」
じっとしていた竜が咆哮を上げた。苦しさと切なさが混じったような悲痛な声に聞こえた。気づいたフェリシアがふわりと竜の背に飛び乗る。額から背に掛けて伸びた角を支えにバランスを取り、囁く。
「変異したばかりだから身体の感覚に慣れていないのね。エーテル濃度の高い場所でなじませないと。この大きさだと、三日はかかるかしら?」
小首を傾げ、シオンを振り仰ぐ。
「この子の望みを叶えたらあなたを迎えに来るわ。それまでに心の整理をつけておいてね? わたしと一緒に来るのが、あなたの生まれついての役目なんだから」
「まっ……っ!」
制止の声は、竜が巻き起こした暴風に呑み込まれる。
為す術なく、シオンが目を戻したときにはもうフェリシアを乗せた竜は空の彼方へと飛び去ってしまっていた。
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