奏界のエデン

空の世界を旅する王道×サスペンスファンタジー
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第44話 ある女の子の物語

公開日時: 2021年3月24日(水) 20:01
文字数:3,734

「ねえ空の人、一つ聞いてもいい?」

「なんだい?」

「フェリシアが目覚めなかったのは空の人が何かしたの? それとも、偶然の産物?」


 シオンは目を見開く。神曲聖歌アステルト・ノートのことだけではなく、フェリシアのことまで知っているとは。思い返せばロゼリアもそうだった。本当に空の解放軍デュアル・サーペントとは何者なのだろう。


 連れてこられた経緯はともかく怪我の手当てまで施してくれたあたり、そこまで過激な組織ではなさそうだけれど。


 好奇心できらめく若葉の瞳に、シオンは苦笑する。


「偶然だよ。そもそも僕は創造の書ラグナロクが何のための聖歌なのかすら知らなかったから。でも、フェリシアが覚醒しなかった原因は僕にある」


 創造の書ラグナロクの力。神曲聖歌アステルト・ノートの真の力。真実を知ったのは、すべてが終わってからのこと。


「ふぅん」

「僕も一つ聞いていいかな? 魂の竜エインヘリヤルを必要としているのはロゼリアなんだよね? でも君とエリックさんは必要ないって言った。彼女は君たちの仲間なんじゃないのかい?」

「……いいわ。ロゼリアのことを教えてあげるね。自分のことをこの世界で一番不幸な女の子だと思っている、可哀想な女の子のお話よ」


 不穏な前置きにシオンは眉をひそめる。視線が交わると、レトの瞳に冷めた色がにじんだ。だが、それはすぐに無邪気な微笑みにすり替わり、まるで小鳥がさえずるように。愛らしい声が昔語りを始めた。



◆◆◆◇◆◇◆◆◆



 女の子が生まれたのは、ヴェルスーズでも歴史ある名家のひとつ。

 女の子には、三つ年上のお姉さんがいました。お姉さんは生まれつき身体が弱く、病弱ではありましたが美人で聡明で器量好し。両親はお姉さんのことを目に入れても痛くないほど溺愛できあいしておりましたが、一方、女の子にはひどく厳格でした。


 女の子のお家は、代々ヴェルスーズの宰相を務めてきた家系。しかし、当代には男の世継ぎがおらず、体の弱い長女に代わって女の子がその地位に就くことを望まれていたのです。


 勉学、体術、ダンス、語学。


 女の子が学ぶべきことは山のようにあります。そのため、女の子の睡眠時間は毎日がほんの二、三時間程度。


 厳しい両親に代わって女の子を甘やかしてくれるのは、お姉さん。女の子が罰を受けるたびに、お姉さんは両親をいさめ、庇ってくれていました。


 重荷を背負わせてしまった代わりにわたしがあなたを守るから、と。事あるごとにお姉さんはそう言って、女の子を抱きしめてくれました。


 そんな日々が終わりを告げたのは、女の子が十三歳のときのことです。


 ある晩のこと。喉が渇いた女の子がお水を取りに廊下に出たとき。扉の隙間から漏れ出ていた明かりに誘われるように、そっとダイニングの中を覗き込んでしまったときのこと。


 お父さまとお母さまが、密やかな声音で恐ろしいお話をしておりました。


 いわく、女王さまからサージェント家の長女を生贄いけにえとして捧げるように勅命ちょくめいを受けた。しかし、娘を竜のえさにするなど、この身がけたとしても受け入れ難いこと。


 だから――。


 両親の密談を盗み聞きしてしまった女の子は、足音を忍ばせてそっと自室へと戻りました。恐ろしい会話に体が震え、その夜、女の子は一睡いっすいもできませんでした。


 夜が明けると、お父さまはこうおっしゃいました。


 女王様からの勅命が下った。


 ――曰く。次の満月の晩、女の子を水晶谷エーテル・ケイアへ赴かせ、その深部にてシャルペーニャの酒を捧げてきて欲しい、と。


 両親の内緒話を聞いてしまった女の子は、それが嘘だと知っています。けれど女の子には、両親に異を唱えるような勇気はありませんでした。


 その日から、暗澹あんたんとした生活が始まりました。両親からは、女王さまの命が済むまでは勉学に励む必要はないと自由な生活を許可されました。その意味は単純です。時間の無駄だからもう必要ない、そういうことです。


 たっぷりと眠れるようになっても、女の子は嬉しくありません。日に日に塞ぎ込んでいく女の子の様子をいぶかしんだのか、ある夜、お姉さんが女の子の私室を訪ねてきました。


 勉学を免除され、好きなことができるようになったのにどうして喜ばないのか、なんて無邪気に尋ねてくるお姉さんに、女の子の心は限界でした。


 途端に、お姉さんの優しさが欺瞞ぎまんに思えてしまったのです。女の子は不満の丈をぶちまけます。


 何も知らないくせに。私を守ってくれるなんて、嘘。守っているのはいつだって姉さまじゃなくて私。私は姉さまの代わりにたくさんたくさん頑張って、怒られて、終いには、竜に殺される。嘘つき、嘘つき。


 そんなことを言った気がしますが、女の子はこの時の会話をよく憶えてはいません。

 ただ、お姉さんが笑って、おかしな夢を見たのね、疲れているんだわ、なんておどけていたことだけは鮮明に記憶しております。


 そうして、女の子が水晶谷エーテル・ケイアへと赴く日がやって来ました。その日のお昼、お姉さんが私室までやってきて、こう言いました。


 地下室にね、使わなくなったテーブルクロスを取りに行きたいの。暗くて怖いから、一緒に来てくれない?


 そんなもの、召使いに頼めばいいのに。そう思いながらも、女の子はお姉さんについて行きました。お姉さんとは、喧嘩をした日からまともにお話できていなかったので、気まずいままでは心残りだったのです。


 地下室に続く階段を降りたとき、女の子は後ろから突き飛ばされてしまいました。そして、がしゃん、と。扉は閉められ、そのまま閉じ込められてしまいました。


 何が起きたのかわからず、扉を叩いても、叫んでも、開けてくれる人は居ませんでした。


 翌朝のことです。寒さと空腹から泣きじゃくる女の子は召使に発見され、そして、お姉さんが周囲の目を盗んで水晶谷へと赴き、帰ってくることはなかったことを聞かされました。



◆◆◆◇◆◇◆◆◆



 気分転換にピクニックに行こう。


 両親が女の子にそんなことを提案したのは、お姉さんが行方不明になった次の日のことでした。夜通し泣いているお母さまの気を晴らすため。お父さまはそう仰っていました。


 三人がやってきたのは、小高い丘の上。空気が綺麗だから少し歩こう。そんなことを言って馬車から降り、親子並んで橋を渡っているときのことでした。


 どん、と。背中を押され、揺らめく水面がぐらりと迫ってきました。


 女の子は、橋から突き落とされてしまったのです。


 流れの速い川。まだ十三歳の女の子では、とても岸まで泳ぐことはできません。ドレスが瞬く間に水を吸い、もがけばもがくほど身体は沈んでいきます。


 お姉さんの顔も。両親の顔も。女の子は最後の瞬間、見ることはなく。


 そして。


◆◆◆◇◆◇◆◆◆



 頰を優しく撫でる炎の熱に、ロゼリアは重いまぶたを持ち上げた。

 星が瞬く夜空と冴え冴えと輝く月がぼやけた視界に映る。鼓膜を震わせるのはパチパチと爆ぜる焚き火の音。背中には硬く冷たい地面の感触。ごわごわとした毛布の暖かさ。それから。


「おはよう。気分はどう?」


 覗きこんでくる愛らしい少女の顔。


 身を起こすと、湿った髪が首筋を撫でてひどく気持ちが悪かった。

 まとったドレスは水をたっぷりと含んで重たく、何があったのかを思い出すには十分な感触。


 父さまと母さまは、私を殺そうとした――。


 背を押される感触。冷たい水。呼吸ができない苦しさ。すべてが蘇って自然と体は震えた。すがるように毛布を引き寄せると、


「あらあ? ひどい顔。自分がこの世で一番不幸って顔」


 十にも満たなそうな幼い少女にくすくすと笑われて、ロゼリアはかっとなる。


「あなたに、何がわかる……っ! 私は……っ!」


 こんな小さな少女に、ロゼリアの何がわかると言うのか。強く睨みつけると、少女の瞳も鋭く細まった。可憐な唇が三日月を描き。小さな頭がかくんと傾く。


「家族に殺されかけた。それだけのことでしょ?」

「……っ!」


 苛立ちから振り上げた手は、横から強い力で制された。ハッと顔を上げると、黒づくめの青年がロゼリアの手首を握っていた。

 肩まで伸びた黒髪はわずかに湿っている。もしかすると、彼がロゼリアを助けてくれたのかもしれない。


 夜を溶かし込んだかのような瞳が少女を見下ろす。


あおるな、レト」

「リッくん、言いがかり〜。わたしは本当のことを言っただけよ」

「それが煽っているんだ。お前の感覚は普通とは程遠い」


 嘆息した青年の眼差しがロゼリアへと向けられる。


 無感動に見えるけれど、どこかいたんでいるようにも見えて、怒りは急速にえてしまった。抵抗する気力はないと悟ったのか、青年はゆっくりと手を離す。


 軽はずみな言葉で姉を殺してしまった。そして両親に捨てられた。


「どうして、私を助けたんだ……っ」


 込み上げてくる嗚咽おえつを殺せず、しゃくりあげる。姉はもういない。両親にとってロゼリアという存在には価値がなかった。あのまま死んでいれば、こんな事実を直視する必要なかったのに。


 泣きじゃくるロゼリアの耳に、少女の甘やかな声が届く。


「ねえお姉さん。死にたいのなら好きにすればいいと思うけど。でも、ここでお姉さんが川に身を投げたとするでしょう? それって、何か意味があるのかしら?」

「意味……?」

「意味のない死はね、世界で一番無駄なものなのよ? お姉さんの命には価値がないってことだもの。せっかくなら意味のある死を迎えてみない? わたしたちお手伝いができると思うの」


 悪魔のような囁きと共に桃色の髪を揺らした少女は、天使のような微笑みを浮かべていた。

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