時は、現在より一年と少々、さかのぼる。
直径三キロほどの浮島に、アステルト教団の総本山――聖地マリステラがある。
アステルト教団は八百年以上の歴史を持つ、空の世界で最も古く、そして広く信仰されている宗教だ。聖術を築き上げた祖とされる賢人アナティウムを象徴として祀り、広い空で絶大な影響力を誇っている。
空の世界における教団の役割は大きく、その最たるものが聖歌が書かれた楽譜の管理と、この世界でもっとも敬意を持たれる職――調律師の資格を認定することだ。
日付も変わった深夜。大聖堂の祭壇前にたたずむアナティウム像を見上げながら、アステルト教の教主を務める女性――エレノア・マリステラは人を待っていた。
壁に据えられた燭台の炎に照らされた聖堂に、蝶番の軋む音が響いた。振り返ると、大扉を開けて入ってきたのはひとりの少年。
柔らかそうな蜂蜜色の髪に、人懐こそうな翡翠の瞳。わずかに幼さを残した端整な面立ちは優しげで、他者を惹きつける静謐な雰囲気を帯びている。
五年ぶりに会う九歳年下の知人は、青年と少年の狭間といえる年頃にまで成長していた。
「お久しぶりです、猊下」
礼儀正しく腰を折る所作からは育ちのよさが感じられる。エレノアは、困惑を隠せない声で少年の名を呼んだ。
「シオン・スタンフォード……」
「憶えてくださっていて光栄です」
昨夜届いた手紙には、内密に面会を求める旨が彼の名で書かれていた。
無下にするにはこの少年の立場は特別で、仕方なく人払いをして待っていたというわけだ。
「どういうことでしょうか? なぜあなたがマリステラにいるのです? 帝国から容易に出られる立場ではないはずでしょう」
この少年は、空の世界で畏怖されるかの大国の要人なのだ。
その証に、空色の上着の袖から覗く左手の中指にはアクアマリンを削って作られたような印章指輪が。楕円型のルビーでできた印章には、雄々しい獅子が印刻されている。それは、帝国において彼の身分を示すものであり、調律を生業とする者の証明でもあった。
エレノアの問いに、少年はゆるやかに首を横に振る。
「ぼくはもう帝国の人間ではありません。半年ほど前に出奔したんです」
「俄かには信じがたい発言ですね。皇帝があなたを手放すと思えません。あなたは空の竜の――」
ラグナロク、という名にぴくりと反応したシオンは、澄んだ薄緑の瞳を翳らせた。
「……帝国で、何かありましたか?」
「猊下の案じるようなことは何も」
「では、質問を変えましょう。あなたに何が起こったのでしょうか?」
「……ぼくは、調律師の称号を得たくてここに来ました。ただ、それだけです」
「それなら試験をお受けなさい。あなたなら、試験を受ければ国家資格だけではなく自ずと称号がつくでしょう」
この大聖堂で行われる調律師認定試験に受かれば、晴れて一人前の調律師として認められる。実績がすべての調律師は、教団の認定がなくてはどこの国でも仕事の請け負いが難しく、自称しているだけということになってしまう。なので、資格は必須と言えた。
資格を持つなかでも極めて素質が高いと認められた調律師には特別な称号が与えられ、空の世界でさまざまな特権を得ることができる。
存命している調律師のなかで称号を持つものはオルラントで六人だけだけれど、この少年なら問題ないだろう。
「次の試験は二年後でしょう? そんなに待てません」
試験は二年に一度で、先月終えたばかりだった。空では航路の確保や気候の問題から飛行船の運航が不定期なのだ。こればかりは巡り合わせなので仕方がない。
エレノアはため息を吐く。
「特例を作ると厄介な事態を引き起こします。欲深くも後に続こうとする者が現れては困ってしまいます」
「資格があることは認めて下さるんですね」
「あなたほどの腕の調律師は、この広い空を探しても見つかりません。それはわかっています」
エレノアが素直に称賛の言葉を贈ると、少年は複雑そうな顔になる。心からの賛辞だったのだけれど、まったく嬉しそうではなかった。
「なぜ称号が欲しいのです?」
「あると便利ですから。どの国でも特権階級の身分証として使えますし、一般の調律師では閲覧できない聖歌の資料も、制限が取り払われます」
「いまさら聖歌の何を調べると? あなたに必要があるとは思えませんが」
「……神曲聖歌を探したいんです」
さらりと投下された発言に、エレノアは返す言葉を失う。すると、シオンは心外そうに眉をひそめた。
「……どうしてそんなに驚かれるんです? 一般の人からすれば夢物語かもしれませんが、ぼくや猊下にとっては伝説とは言えないでしょう」
「たしかに、神曲聖歌はただの伝説ではありません。実在しています。ですが、この九百年のあいだ空でその楽譜が表に出たことは一度としてありません。だから、夢物語なのです」
帝国が空で畏怖されているのは、神曲聖歌の一つを唯一所持しているからだ。
「実在しているのはわかっているんです。見つかる可能性は十分あります」
「なぜ神曲聖歌を求めるのです? 人は神に近づいてはならない。その戒めが幻妖種です。あなたなら、理解しているはずです」
創世記には、幻妖種は人の傲慢さを戒めるために生まれた異形だと書かれている。教養の確かな彼がそのことを知らないはずはない。
「わかっています。それでも、ぼくは神曲聖歌を探したいんです。探さないと、いけないんです」
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