まん丸の赤い月が冴え冴えと輝き夜も深まった頃、シオンとルクレティアは再び水晶谷を訪れた。
洞窟に足を踏み入れたふたりは、以前とは異なる光景に息を呑んだ。
足元や岩壁から突き出た水晶は、月の色を映し込んだかのように赤く燐光していた。外から吹き込む風によってエーテルの粒子が舞うさまは以前は幻想的に思えたけれど、色の禍々しさからか不気味にすら思えた。
――それに。
前回訪れたときよりも内部のエーテル濃度が高く、空気の重さ、あるいは息苦しさからシオンは立ちくらみにも似た感覚に襲われて、反射的に冷たい岩壁に手をついて身体を支えることになった。
「シオン、大丈夫っ?」
エーテルの光とルクレティアが掲げ持ったランタンの眩しさに目を細めつつ、シオンは苦笑する。
「平気だよ。少し、眩暈がしただけだから。でも、キツイな……」
以前は身体が気怠い程度で済んだけれど、今夜は立っているのがやっとなほど。この状況下で深部まで自らを目覚めさせに来ることを求めた魂の竜はどんな神経をしているのだろうと、つい考えてしまった。
「シオン」
ため息と共に鉛のように重い足を進めようとすると、ルクレティアに呼ばれた。隣を見やると、彼女はクロークに包まれた細い腕をシオンに向けて差し出してくる。
「なに?」
意図がよくわからずに首を捻ると、ルクレティアは真剣な面持ちで言う。
「わたしがシオンの手を引いて支えるわ」
支えがないと、気を抜いた途端に倒れそうだったのは事実なので、シオンは彼女の申し出を素直に受けることにした。伸ばされた手のひらはシオンのものよりもずっと小さくて、そのことに悲しさを感じる心中を押し殺して、ありがとう、と微笑む。
ルクレティアに支えられる形で、幻竜が待ち受ける最深部へ向けて歩き出す。
「生贄に選ばれた人たちは、きっと一人で洞窟を歩いたのよね」
「……うん」
沈んだルクレティアの声音から言わんとすることを察したシオンの返事もまた、暗くなってしまった。
静まり返った洞窟内で響くのは互いの息づかいと足音だけで、ひどく淋しい。幻竜にその身を捧げる為だけにこの息苦しさに耐え、不気味な通路を歩くことが年若い女性にとってどれだけの恐怖を伴う行為か。想像するだけで余りあった。
「ヴェルスーズで暮らすほとんどの人たちが、このことを知らずに過ごすのね」
「…………」
悲しげな囁きにシオンは何も答えてあげることができず、ただ沈黙を返すしかなかった。
ヴェルスーズの人々が真実を知らぬまま歴史の闇に葬り去ることは正しいのかは、わからない。けれどこれから為すべきことは一つなのだ。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
最深部へと繋がる洞穴の前まで辿り着いたところで、ふたりは一旦、足を止めた。背負っていた荷物を置いて身軽になると、ランタンをルクレティアから受け取ったシオンは、彼女を促して最深部へ足を踏み入れた。
水晶谷の深部は、大穴の空いた天井から差し込む赤い月明かりによって照らされ、真っ赤に染まっていた。場に満ちたエーテルの粒子も、足下から突き出た巨大な水晶も、すべてが紅い輝きを放っている。
視界が赤く染まり、目に痛いくらいだ。
視線を空から地上に戻すと、最奥には前回と同じく黒光りする鱗を持った幻竜が眠っていた。巨体を縮こめ、尻尾を丸めてグウグウと寝息を立てている。
彼我の相対距離は目測で四十メートルにも満たないほど。なるべく刺激したくはないが、聖歌を捧げる必要がある以上そうも言ってはいられない。
シオンはルクレティアへと目配せする。これから彼女がすることは一つ。
何があっても、聖歌を中断しないこと。ただ、それだけだ。
「……ティア」
シオンが囁くとルクレティアは緊張を解きほぐすように一度深呼吸し、それから丁寧に音を紡ぎ始めた。
【此に捧げるは夢幻の書。空の竜に選ばれし守人が創りし祈りの唄】
馴染んだ高音がシオンの耳を柔らかく撫でる。清涼な彼女の歌声で、息苦しく感じられた空気がふっと軽くなるようだった。
ルクレティアの歌声に刺激されたのか、伏せられていた幻竜の瞼が持ち上がった。ギョロリと彷徨った瞳が二人を見据えると、ばさり、と蝙蝠めいた翼がはためき、巨体が起き上がる。竜の翼から生み出された風が生ぬるさを伴ってふたりの身体を嬲る。
強風に髪と衣服が平等に煽られるなかで、息を呑みかけたルクレティアの手のひらをシオンはぎゅっと握った。ここで中断すればどうなるかわからない。
【祈りは儚く、願いは遠い。あの日夢見た空は灰色に染まり、焦がれた翼はどこにもなく】
シオンの励ましに応えるように歌声は途切れることなく正確に音を紡いでいくけれど、愛らしい顔が歪み、苦悶を訴えるように眉がひそめられた。人と比べてルクレティアはエーテルへの感受性が強いから、意に従わないエーテルの感覚が辛いのだろう。
見守ることしかできないことに歯痒さはあるけれど、この状況下でシオンができることは何もない。握る手に力を込めて、ルクレティアを勇気付けることしかできない。
幻竜が身動ぐ気配に、シオンは視線を前方へと向けた。人間の命などほんのひと撫でで奪いされる脅威が足音を立てて近づいてくる。大きな後ろ脚が床を踏みしめる度に、ぐらりと足元が揺れた。
竜の首が持ち上がり、ふたりを睥睨してくる。地面にランタンを置き、シオンは反射的に剣の柄に手をかけてしまったが、彼の警戒に反して尾も前脚も向かっては来ず、仲間を呼ぶための咆哮も上げない。
ぐるり、と剥いた牙の隙間からどろりと垂れ落ちた涎が岩肌を濡らす音がルクレティアの声と重なると、周囲のエーテルが歌に呼応するように明滅し始めた。
チカチカと暗闇と眩さが切り替わる度に、殺意に染まっていた竜の瞳の熱がぼんやりと緩んでいくのがわかった。
ゆっくりと柄から手を離したシオンは、やっぱり、と確信する。おそらくは、これが魂の竜の持つ力なのだ。
――魂の竜は、幻妖種の意識に何かしらの干渉をし、傀儡にできるに違いない。
水晶谷で起きているエーテルの異常性が魂の竜の力の影響だと仮定すれば、納得できる。
魂の竜の力が幻竜に及んでいる間、竜は洞窟に留まり、街を襲わない。
そして、最初は魂の竜が自ら創作した聖歌を捧げる者を。
楽譜を紛失してしまった後には、赤い満月の晩に独創楽譜を捧げる者を襲うことがないよう、幻竜の本能に刷り込んだ。
幻竜がたびたび人里を荒らしていたのは、時間の経過によって魂の竜の力が弱まり、幻竜を支配下に置くことができなくなっていたからではないだろうか。だから魂の竜は定期的に目覚める必要があったのだろう。
本来なら聖歌を捧げて魂の竜が目覚め、幻竜に再び術をかけるはずが、生贄を捧げたことによって魂の竜は目覚めなくなってしまった。皮肉だったのは、定期的に供給される餌によって幻竜がこの洞窟から出る必要がなく、街を襲わなかったことか。
結果が出てしまったから、誤った風習は正されず、続いてしまったのだ。
シオンの憶測がどこまで当たっているのかはわからない。しかし、彼の推測を後押しするように、幻竜の獰猛さは鳴りを潜め、借りてきた猫のような大人しさでふたりを見下ろしていた。
【――いつか、すべてが元どおりになりますように。呪いを再び祝福へと変え、灼きついた笑顔をもう一度】
聖歌は終盤へと差し掛かっていた。
【――儚い望みが幻想だと気づくとき過ぎ去りし約束は想い出に。魂の色に気づく度に、変わらぬ色を見い出す】
シオンはそっと、ルクレティアの様子を盗み見た。気持ちが乗ってきたのか苦しげだった表情はいくぶん和らいでおり、その顔にシオンが危惧していた色は浮かばない。
ルクレティアは聖歌に用いるアステルト語の発音は完璧だけれど、単語の意味に明るいわけではない。好奇心旺盛な子だけれど、アステルト語を覚えたいと言われたことは一度もなかったし、学習しようとする姿勢を見かけたこともない。
なので曲想はシオンが事前に伝えたが、歌詞はあえて翻訳しなかった。だから詩の意味はわからないはず。
魂の竜に捧げるために創作した聖歌だけれど、シオンが本当は誰にこの曲を贈ったのかは、たぶん、気づかないだろう。
――歌詞の意味はね、わからないままでいいの。だってお役目とは関係ない、シオンがわたしの為だけに作ってくれる曲だもの。シオンが教えてくれればいいわ。どんな風に歌って欲しいかもぜんぶ、言葉で伝えて? わたしたち、時間だけはいっぱいあるんだもの。いいでしょう?
もう十年以上も前のことなのに、幼い少女の言葉をシオンは正確に思い出せた。
聖歌を完璧に歌い上げることができるのにいつまで経っても単語の意味を覚えようとせず、シオンに翻訳させる少女に業を煮やした彼に、彼女はそう言った。いちいちヴェルセーヌ語に訳して更には曲想まで事細かく言葉で伝えるのは面倒くさかったけれど、結局折れたのは、聖歌に関して語らうのはシオンも好きだったからだ。
けれど、この一曲に関してはシオンが詩に込めた想いを誰かに語る日は訪れないだろう。
伝わらない前提で、答えられない問いへの答えを書いたのだから。
【禁忌の先にある二人の秘密。名前の意味を、君はおぼえているだろうか】
ルクレティアの歌が、終わりを迎えた。
――そして、赤い光が消え去った。
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