日もすっかり沈んだ夕食どき。幻竜という脅威から解放された反動からか、飛行船に設けられた食堂は乗客と船員によって大盛りあがりだった。
飛行船を救ってくれたお礼だと言ってウェイトレスが運んできた料理はとにかく量が尋常ではなく、広いテーブルが大皿で埋まってしまうほど。味は確かなのだけれど、とてもふたりで食べきれるものではなかった。
とはいえ、実際に食べているのはシオンひとりで、ルクレティアの取り皿は一度も使われていない。彼女は食事をすること自体は可能なのだけれど味覚がないこともあってか、無理して食べると嘔吐してしまうのだ。
人と変わりなく見えるルクレティアが人ではないのだと実感するのはこういうときで、シオンはそのたびに複雑な気持ちにさせられる。
しかし、当の本人はもう慣れっこなのか、テーブルに両手で頬杖をついた少女はご機嫌だった。
「誰かに感謝されるのって、とっても嬉しいことなのね」
頰を上気させてにこにこと笑うルクレティア。たぶん、名前も知らない乗客たちがこぞってふたりにお礼を言いに来てくれたときのことを思い返しているのだろう。微笑ましさに、シオンも自然と頬を緩めてしまう。
「悪い気がしないのは確かだけど、空で幻竜と戦うなんて経験は二度としたくないかな」
「ふふ。わたしが操縦室に行ったときね、船員さんたちみんなびっくりしていたのよ? 幻竜に空で戦いを挑むなんて無謀すぎるって。バカか自殺志願者かのどちらかですって」
本人が聞いていないからって、ずいぶんな言われようだ。けれどシオンも自分の行動を自殺行為だなあと思ったので、苦笑するだけに留める。
「でも、シオンにはわたしがいるんだからどちらでもないわよね」
「……そうだね。ティアの聖歌にはいつも助けられているよ」
「それなら、シオンについてきた甲斐があったわ」
ルクレティアはにっこりと微笑むけれど、その心中を推し量ると罪悪感でいたたまれなくなる。
ルクレティアは未だにシオンがどうして彼女を知っていたのかも、帝国で何をしていたのかも、そして神曲聖歌を完成させて何を願うつもりなのかすらも、尋ねてはこない。
シオンが話したくないことだというのを、たぶんルクレティアは察している。そして何も尋かずに彼を助けてくれているのだ。
彼女の聡さと優しさをいいように利用しているようで、ふとした瞬間に我に返ると、自己嫌悪に陥ってしまう。
黙り込んだシオンを不思議そうに見てくるルクレティアに慌てて微笑みかけようとすると、
「なんだあ? 全然減ってねえじゃねえか」
酔っ払った男の声がかかったかと思うと、横から伸びた大きな手が大皿に乗っていた魚のフライをつまみあげてしまった。
目を丸くしたルクレティアが乱入してきた男に非難の声を上げる。
「ちょっと! このお料理はシオンがもらったものなのよ? 勝手に食べるなんてひどいわ」
「なんだよ、一緒に幻竜と戦った仲だろ? つれねぇこと言うなよ」
不服そうに言うのは甲板で居合わせた聖術師の男。その右手にはグラスに並々と注がれた麦酒がある。
「一緒じゃないわ。あなたはちょっと銃を撃っただけじゃない。シオンに比べれば何もしていないのと同じよ」
たぶん、出逢ったときの男の態度を根に持っているのだろう。ルクレティアはつんとした態度だ。しかし、目の前の料理はシオンひとりで片付けられる量ではなかったので、苦笑しつつ皿を男の方へとずらした。
男はしたり顔で近くの卓から椅子を引き寄せ、シオンとルクレティアの間に座る。
「まだ名乗ってなかったよな? 俺はギデオン・クラーク」
酒で気が大きくなっているのか、男の態度は甲板で話したときよりも親しみを感じられた。
「僕はシオン・スタンフォード。彼女はルクレティアです」
「スタンフォード? もしかして、空の調律師か?」
シオンの肩書きはこの一年ですっかり有名になってしまっていた。
聖術師を相手に迂闊に名乗ったことを後悔したけれど、いちいち偽名を使うのも自意識過剰な気がするので、きっとこの先も同じことを繰り返してしまうと思う。
「そう呼ばれることも、あります」
「なるほどなあ。納得がいったぜ。嬢ちゃんの聖歌は聞いたことなかったからなあ。あれだけの術なら当然第一階位に属するだろ? 聞いたことねえなんて変だと思ったんだ。ありゃあ、お前さんのお手製ってことか」
聖歌は、歌が長く複雑になるほど威力と規模が増し、階位が上がるほどに楽譜を組むのが難しく、必然的に種類は少なくなる。なので、階位の高い聖歌は知名度が高いのだ。聞き覚えのない第一階位の聖歌は独創楽譜ということになる。
「ええ、そうよ。光の投網はシオンが作った聖歌なの。すごく綺麗な曲だったでしょう?」
さきほどまでのツンツンした態度はどこへやら。単純なルクレティアは大好きな聖歌の話題になって弾んだ声を上げる。腕組みをしたギデオンは、納得したように大きく頷いた。
「空の称号の由来は作曲にかけては空で右に出る者がいないから……なんて噂は聞いたことがあったんだが、本当だったんだな。その年であれだけ複雑な聖歌が作れるなら、よほど聖歌の神に好かれてるんだろうよ」
拍数にもよるけれど第一階位の楽譜はだいたいが四十小節前後。特定の音と言霊で変化するエーテルの特性を把握し、すべての音と歌詞を計算して術にするのは想像を絶する難しさ。作れる調律師の数はオルラントでも両手の指で足りてしまうくらいだと言われている。
「……そうですね。僕も神さまがくれた才能だと思っています」
「ならこっちの噂はどうなんだ? 称号持ちの調律師なのに教団に独創楽譜を提供しない問題児ってやつ。これのせいで聖術師のあいだじゃ、お前さんの評判はよくないぜ?」
「それは……まあ、事実ですね」
「なんで提出しねえんだよ。とんでもない大金が手に入るじゃねぇか」
「…………」
咄嗟に上手い言い訳が思い浮かばずに、シオンは言葉に詰まった。
独創楽譜については抱えている想いが複雑すぎて、嘘をつくにも躊躇が生まれ、返す言葉が喉の奥で引っかかってしまう。
聖歌を作ることは大好きだった。新しい楽譜を生み出すたびに周りの大人たちが褒め称えてくれるのは幼心にも悪い気はしなかったし、何よりも、彼女が楽しそうに歌ってくれる光景を見るのが好きだったから。
しかし、どれだけ才能に恵まれていても聖歌が人の手に余る代物だと思い知らされたとき、シオンは途端に楽譜を書くことが怖くなってしまった。
シオンが返事をできずにいると、ルクレティアが口を挟んでくれた。
「あの、えっとね、シオンはお金に興味がないのよ。大金持ちになりたいのじゃなくて、旅をするのに必要な最低限のお金があればいいって感じなの」
シオンが大金に興味が薄いのは事実だけれど、楽譜を提出しない理由とは異なった。しかし、ルクレティアなりにシオンを気遣って必死に考えた末に助け船を出してくれたのだろう。
彼女はシオンがどうして聖歌を作るのをやめているのか、その理由も一度も尋ねて来ない。それでも、こうして彼の心中を慮って必死に守ろうとしてくれる、優しい子なのだ。
どもりながらの言葉はシオンから見れば一目で嘘とわかるものだったのだけれど、酔っているからかそれとも元より鈍いのか、ギデオンは少しも疑っていない様子で眉をしかめた。
「だとしてもだなあ、楽譜の提出は義務だろ? その代わりにいろんな特権が認められてるんだからよお」
これも痛い指摘だった。空の世界の更なる発展のために独創楽譜を教団に納め、代わりに入国審査の簡略化や国家施設への立ち入りの許可などのさまざまな特権が得られるのが、称号を賜わるということなのだから。
シオンは義務を果たしていないのに特権だけ行使している、とんでもない調律師ということになる。実際、そのとおりだった。
「ギデオンさんの言うとおりなんですけど、僕にも譲れないものがありますから。教主さまにも許可をいただいていますし。……あの、ところで、ギデオンさんは飛行船の護衛が仕事なんですか?」
気まずい話題を強引に逸らしても、酔っているせいかギデオンは嫌な顔一つせずに頷く。
「ああ。そうだが?」
「飛行船が幻妖種の襲撃を受けることって、珍しくないんですか?」
実はずっと気になっていたことだった。 幻妖種が空の境界より上に上がってくることはほとんどない。
そう書物で読んだことがあったのだけれど、シオンの知識は間違っていたのだろうか。
「まさか! 幻竜なんざ五十年に一度現れるかどうかって話だし、幻妖種ですら滅多に出くわさねえよ。そうでもなきゃ、飛行船の護衛が俺ひとりなんてこと、あるかよ」
「やっぱり、そうなんですね」
「ただ、なあ……」
ギデオンは酒で充血した目をすがめて、難しい面持ちになる。
「空に現れる幻妖種の数が増えてきてるって話は何年か前から出てるんだよなあ。いや、違うか。幻妖種の数が増えてるって言うより……」
男が言わんとしていることはなんとなくわかる気がした。
「幻妖種全体がより強力な個体に成長しつつある、ですか?」
「それだよ、それ」
幻妖種はどの個体も飛行能力自体は備わっている。ただ、限界高度が異なるので、空の世界まで飛べる幻妖種はそれだけ能力が高いということになる。
「それって……幻妖種から生き延びるために空の世界ができたのに、空もいつか安全じゃなくなるかもしれないってことなの……?」
ルクレティアは不安そうに顔を曇らせる。
「人が空の世界に適応した結果として聖術師が生まれたんだし、幻妖種もそうなのかもしれないね」
「なにせ、幻妖種は人を滅ぼすために神が遣わした人類の敵だって説もあるくらいだからな。嫌な適応力を持っててもおかしくないんじゃねえか?」
「でも、人が生き延びるために空に大陸を創ったのも神さまでしょう? なんだかあべこべだわ」
ルクレティアは納得いかなげだ。
シオンは「神さまは気まぐれって評判だからね」と茶化してこの話題を締めようと思ったのだけれど、彼が口を開く前にギデオンが神妙な面持ちで言葉を発した。
「なあ、おまえらはシュヴァルティスの破滅の予言って言葉、聞いたことあるか?」
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