――少女の美しい歌声が、夢うつつの少年の意識にするりと入りこんでくる。
【此に捧げるは、終末の書】
【神の一柱たる空の竜が選びし 紡ぎ手が綴る――始まりの唄】
それは森羅万象を紡ぐ、聖歌と呼ばれる魔法の歌。
【人に空を与えし神の化身化身たるは七匹の竜。大地を 慈しむ終末の獣は紡ぎ手に加護を授けん。神と道を違えし賢人は】
そこで、歌がぷつりと途切れた。まどろみに意識を委ねていた少年は、ゆるりとまぶたを持ち上げる。
目に入るのは、窓から差し込む木漏れ日を浴びて輝く、プラチナブロンドの長い髪。対面のソファに座してこちらを見下ろしてくるあどけない少女の顔は、幼い頃から見慣れたもの。
視線が絡むと、少女は小鳥のように無邪気に首を傾げた。
「ねえ、シオン。シオンは自由になりたいって思ったことはある?」
少女がそう尋ねてきたのは、互いが十三歳のときだった。
「じゆう?」
寝起きの声は掠れてしまっていた。
「そう。自由。この帝国を出て役目なんて気にせずに好きに生きるの」
少年と少女は、この国で特別な役目を担っていた。そのために、自由とは程遠い軟禁生活を強いられている。
しかし、少年はそれが不満かと問われると――。
「考えたこともないかな。ぼく、今の生活が気に入ってるし」
長い睫毛を瞬かせた少女は、ゆっくりと視線を室内に巡らせた。床に散らばった書きかけの楽譜の数々を視界に収めてから、細く息を吐き出す。呆れたような響きを込めて。
「シオンは楽譜バカだものね。一日中作曲さえしていればそれで幸せよね」
「それはきみだって同じでしょ。ぼくが楽譜バカならきみは聖歌バカ。聖歌さえ歌っていれば満足なくせに」
馬鹿にされたみたいでむっとして言い返すと、少女は考えるように天井を見上げて、すぐに頷いた。
「そう、かな? うん、そうかも。でも、ひとつ間違ってるわ。わたしが好きなのはシオンの作った聖歌なの。聖歌なら何でもいいわけじゃないもの」
面と向かって言われると恥ずかしさが勝る台詞を臆面もなく告げてくるのは、少女の困ったところ。ここで照れてしまうと一転してからかわれるのは予想できたので、強引に話題を戻す。
「自由になりたいって、空の世界に行きたい、とか?」
地上にはふたりが暮らす帝国以外に国は存在しないし、荒野が広がる大地があるだけだ。憧れなんてとても抱けないだろう。
愛らしい顔を見上げると、少女は藍色の瞳をぱっと輝かせる。
「うん! わたし、空の世界に行ってみたい! シオンはどう?」
「えぇ? 大陸から落ちたら死ぬし、ぼくはいやだな」
「シオンは夢がないわ……」
夢がないとは心外だった。空の上で生活するだなんて、想像するだけで嫌な発想がいくつも浮かんでしまう。それは至って普通の感覚のはずだ。少なくとも、地上に住まう者にとっては。
「せめて現実的って言って欲しいんだけど。それに、ぼくは終末の書を編曲するのが、きみはぼくの作った聖歌を歌うのが役目だろ。自由なんて縁遠いよ」
「それは、そうだけど……夢見るくらいはしても許されるでしょう?」
不服そうな少女に、まあそうなんだけどね、と苦笑を返す。
およそ九百年前、この世界に幻妖種と呼ばれるバケモノが現れた。
対抗する術なく滅びを待つのみだった人類を見かねた神は空に新たな大陸を創造し、人類のほとんどを逃した。
その天地創造の際に用いられたとされるのが神曲聖歌と呼ばれる、七つの楽譜からなる特別な聖歌。
九百年の時を経て現存しているのはこの国のラグナロクと呼ばれる楽譜だけだけれど、すべての楽譜を集めるとどんな願いでも叶うという逸話だけはいまだに語り継がれている。
「シオンはラグナロク以外の神曲聖歌に興味はないの?」
いきなり切り替わった話題に、少年は怪訝な面持ちになる。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「……なんとなく」
「うーん。興味がないわけじゃないけど、残りの六つはたぶん空にあるんだろうし、帝国にいる限り縁がないだろうからな……」
どんな曲かはともかく、七つ集めたら本当に願いが叶うのかどうかは興味があるかもしれない。
「それなら、もし空に行けたら? 見つけられると思う?」
「どうだろう? 九百年のあいだ謎に包まれてる聖歌を見つけるのは、やっぱり無理なんじゃないかな?」
「じゃあ、わたしが聞いてみたいって言ったら、どう? 探してくれる?」
なおも食い下がってくる少女に、少年はふと違和感を抱いた。
「本当にどうしたの? 何か変じゃない?」
「変って……何が? さっきシオンが言ったのよ? わたしは聖歌バカだって。それなら神さまが作った曲を聞いてみたいって思うのは当たり前のことでしょう?」
少女の言い分に、首を横に振る。
「ちがうだろ? さっき自分で言ったんじゃないか。きみが好きなのは、ぼくの聖歌だって。神曲聖歌の話題なんていままで出したことないし、そんなに興味ないんだろ? 何か、ぼくに隠して――」
言い終わる前に、ぼふん、と顔めがけてクッションが飛んできた。
「フェリシアっ?」
投げつけられたクッションをどけて半身を起こすと、
「その呼ばれ方、きらい」
振り返りざまにそれだけ言って、少女は立ち去ってしまった。
「いきなり、なんなんだよ……」
一連の会話のどこにへそを曲げる要素があったというのか。思わずため息をこぼしてから、まあいいか、と再びソファに身を沈める。
この日、少女を深く問い詰めなかったことをこの先ずっとずっと後悔することになるだなんて、この時は知らなかったから。
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