シオンと顔を見合わせ、振り返った先には小さな竜がふわふわと浮かんでいた。
大きさは、小型犬ほどだろうか。緋色の鱗にルビーのような大きな瞳。ぱたぱたと微風を起こす蝙蝠めいた小ぶりの羽。口元から覗く牙は鋭くも愛嬌が感じられた。
「……もしかして、魂の竜?」
「ええ? この子がっ?」
ルクレティアはびっくりした。当のシオンも自信がないのか、その声には困惑が滲んでいる。彼女が想像していた魂の竜は雄々しくて、威厳に溢れる巨躯。対して目の前に浮かぶ生物は神と呼ぶのは憚られる、愛くるしい造形をしていた。
「うん。そうだよぉ? ふわぁ〜〜」
間延びした返事の後に小竜がくわりと欠伸をすると、口元から悪戯っぽく牙が覗いた。
「いつから目覚めていたんだい?」
「幻竜がびゅうんっ! ってキミたちに突進していったとき?」
つまり、最初からということだ。
「それならどうして姿を見せなかったんだい? 幻竜を鎮めるのはあなたの役目だろう?」
「だってさ、キミたちは幻竜に困らされていたんじゃなくて、オイラの力を求めて来たんだろう? それなら託すに足るか試練を受けてもらわなくちゃね」
シオンに借りた冒険小説で似たような展開があったなと納得していると、大きな瞳が悪戯っぽく細められた。
「ていうのは、建前で。あれはもう用済みだったから。始末してもらった方がオイラも楽チンかなあ〜って」
「……もしかして、魂の竜って意地が悪いのかしら?」
シオンにこっそり耳打ちすると、彼も微妙な顔になる。そんなふたりのやり取りを気にした素振りも見せず、魂の竜はのんびりと言葉を紡ぐ。
「それにしても、待ちくたびれたよ」
すんすんと小鼻をひくつかせて。
「うん。やっぱり。空の竜の匂いがする。キミ、空の竜の調律師だよね? それならそっちが……」
どんぐり眼がルクレティアへと据えられ――ぱちくり、と瞼が瞬いた。
「キミ、違うよね?」
訝しげな竜の反応に、ルクレティアは目を丸くする。違うというのは、どういう意味だろう。
「あっれれ〜。おっかしいなあ〜。どうして〜? だって、そっちのキミはスタンフォードの長子だよね? それなら一緒にいるはずなのは――」
「魂の竜」
遮ったシオンが、静かな声音で口を挟んだ。
「彼女はルクレティア。あなたを目覚めさせたのは、彼女の歌声だよ」
「ルクレティア……」
まじまじと見つめてくる。
「ふぅん……オイラ達の愛しい子はどうしたの〜?」
どうしてここでその名前が出てくるのだろう。フェリシアが殺されたことを、眠っていた魂の竜は知らないのだろうか。
内心で首を傾げつつシオンを見上げると、柔和な面差しが厳しいものになる。
「彼女はいない。でも空の竜は僕たちが神曲聖歌を探すことを認めている」
「空の竜が?」
赤い尻尾をふよふよとくゆらせた竜は、また瞳を細めた。
「ふぅん。まあ、それならいい、のかな? うん。キミたちにオイラの楽譜を預けるよ。でも、加護はあげない。どうせ必要ないだろう?」
「そうだね。僕たちは君の力を使いたいわけじゃなくて神曲聖歌が必要なだけだから」
「ま、そうだよねぇ」
加護って何だろう、とルクレティアは疑問に思ったのだけれど、シオンはあっさりと承諾した。後で訊いたら教えてもらえるのだろうか。口を挟むのは躊躇われたので沈黙を守ると、魂の竜はシオンの手にある赤い石を爪でツンツンとつついた。
「大事に扱ってよねぇ〜。この譜面石はオイラの心臓みたいなものなんだから。壊れちゃったら、オイラ死んじゃうから」
やはりこの石は譜面石らしい。シオンが印章を翳せば、楽譜が見れるのだろう。
「あなたはこれからどうするの?」
「うん? オイラ? オイラは譜面石から離れられないからキミ達について行くしかないよねぇ」
「一緒に来るのかい?」
「心配いらないよぉ。普段は石の中で眠ってるからさ。実体保つのって疲れちゃうんだよねぇ」
疲れる、という言葉を助長させるように、魂の竜はくたびれたようにまたくわり、と欠伸をした。そんな呑気な神さまの一柱に、シオンが真剣な声音で尋ねる。
「魂の竜。一つ教えてくれないか。どうしてあなたは楽譜の守り手に幻竜を選んだんだい?」
「安眠を無関係の人間に邪魔されたら迷惑だろう? 幻竜がいたら、人間は滅多に近寄らないと思ってさあ〜。オイラの力で暗示をかければ五十年くらいなら幻竜も大人しくしてるしね。だからこの大陸ができたときに地上から一匹拝借してきたってわけ」
「でも、暗示が切れれば幻竜は街を襲う。あなたを目覚めさせる聖歌を残したからって、被害がまったく出ないわけじゃない。その可能性は考えなかったのかい?」
「考えたかもしれないし、考えなかったかもしれないねぇ〜」
適当な答えに、ルクレティアは唖然としてしまう。シオンは滅多にない厳しい口調で続ける。
「眠っていたから知らないかもしれないけれど、ヴェルスーズの為政者はあなたが目覚めの条件を変えてからは魂を生贄と解釈して、犠牲を出し続けていたんだ。あなたが悪いとは言わないけれど……避けられたことかもしれないだろう? まじめに答えてくれないか?」
「ええ〜? 通じなかったのお? 人間ってにぶちんだなあ。人間のお肉なんて捧げられてもオイラが嬉しいわけないじゃんかあ。ってことは、オイラが最後に起きた時からかなり時間が経ってるってことぉ? そっかあ。それなら創造の書だって完成するよねぇ」
シオンの質問への答えなんてそっちのけ。竜は独り言のようにぶつぶつとぼやいた後に、喉の奥からくつくつと笑い声を漏らした。
「でも、面白いなあ〜。幻竜にはね、二つ暗示をかけてたんだよぉ? 一つはこの洞窟から出ないこと。こっちは時間が経つと暗示が弱まるから掛け直す必要があるんだけど、もう一つは永続的。ヴェルスーズにはね、一つ目の暗示が弱まるか空の竜の関係者が近づくと、月が赤く見えるようにオイラの力が働いているんだあ。だから赤い満月の晩に独創聖歌を捧げに来た人間は襲うなって、暗示を掛けておいた」
竜は得意げな顔で続ける。
「それでさ、一つめの暗示は別にオイラが掛け直さなくても条件を満たせばまた掛かるように保険が掛けてあったんだよねぇ。それが、最深部に聖歌が捧げられること。オイラが目覚めた時に幻竜がこの場にいたってことは、暗示は掛かったままだったってことになるよね? それってさ、幻竜も人間とおんなじで聖歌を命と解釈したってことだよねぇ? 人間の知能は幻竜と一緒。ふふ、笑っちゃうね。あ~、でもでも、それも自然の摂理かなあ?」
あんまりな魂の竜の物言いに、シオンが眉をひそめて黙り込んだ。その顔にははっきりと嫌悪が滲んでいる。
ロゼリアやこれまで犠牲になった女性たちのことを思えば、ふつふつと込み上げてくる感情があった。だからルクレティアはにこにこと笑う竜をきっと睨む。
「どうしてそんなに楽しそうなの?」
「なんだって?」
「あなたが幻竜を守護者にしたから、たくさんの人が犠牲になったのに。知らん顔だなんて、ひどいわっ」
ルクレティアが詰ると、魂の竜は笑いを引っ込めた。能天気だった雰囲気に途端に怒気がこもる。
「……気が変わったからあ、さっきの質問に答えをあげるよ。オイラが幻竜を守護者にしたのは、人間を困らせたかったからだよぉ? オイラからすればその生贄ってやつも願ったり叶ったりってことだよねえ~」
シオンが何かに気づいたように呟いた。
「もしかして、暗示が解ける前提で幻竜を護り手に……?」
ルクレティアが弾かれたように竜を見やると、神さまはにやにやと笑っていた。それはつまり、肯定。
「……っ、どうしてそんなことをするの? 七神竜は人を見守る神さまなのでしょう?」
「オイラたちは幻妖種に嬲り殺しにされてる人間たちに空の世界をあげたんだよぉ? それで役目は十分に果たしたんだし、ちょっとくらいの意地悪はご愛嬌だろぉ?」
人の命を弄ぶような悪趣味な真似がちょっとくらいの意地悪で済むはずがない。
「でも……っ!」
「わっかんないなあ〜」
ルクレティアが言い募ろうとすると竜は深々と息をついた。すべてが面倒だと言うように。
「空の竜の調律師。どうしてこ~んな頭がお花畑なお人形を連れているんだい? オイラ、綺麗事にはうんざりだよぉ?」
ぞっとするほど低まった竜の声音にも、シオンは怯まなかった。それ以上に冷ややかな口調で彼は言い返す。
「僕は七神竜と違ってフェリシアが嫌いだからだよ。それに、ティアの意見は当然のものだよ。人を道具としか思わないあなたたたちにはわからないだろうけどね」
「人形の意見がまっとう、ねえ。ふぅん。どうしてこんなことになってるのか知らないけど大罪人だね、キミ」
「…………」
シオンと魂の竜のあいだで火花が散る。睨み合いの末、先に視線を逸らしたのは竜の方だった。
「ま、いいや。空の竜が認めてるなら逆らうのも怖いしねぇ。お休み、お人形と調律師くん」
最後には一方的に別れを告げて、魂の竜の身体が赤い光の粒となって譜面石へと吸い込まれていく。石が淡く輝き、刹那の時間を置いて光は完全に鎮まった。
しん、と辺りが静寂に包まれると、ルクレティアはシオンを見上げた。
手の中の譜面石を見つめる彼の表情はいつになく厳しいもの。悲願の一つが叶ったというのに、月明かりに照らされたシオンの顔はまったく嬉しそうではなかった。その心中がルクレティアと同じものだということを容易に察せる。
「どうして……? シオンの知っている空の竜もあんな風なの? だからシオンは、嫌いだって言ったの?」
「空の竜は……」
シオンが答えに詰まったように言葉を引っ掛ける。困り果てたというその顔に、はっとしたように緊張の色が走った。
「ティア、離れてっ!」
いきなり突き飛ばされたルクレティアが小さな悲鳴と共に尻餅をついた瞬間。
ぱあん、っと。銃声が轟いた。
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