街灯に取り付けられた拡声器を通してルクシーレの街全域にアウレラから通達が入ったのは、午前のこと。
街の地下に広がる夢幻機関の暴走によって、高濃度のエーテルが地上へ流れ出てしまっている。人体に悪影響を与える最悪の事態を考慮して、すべての市民へ本日中にシェルターへの避難を命じる。
それが、アウレラの言葉だった。
もとより、不安定な空で暮らしているのだ。万が一にも幻妖種が襲ってきた場合。あるいは他国との諍いが起きた場合に備えて非常時のマニュアルというのは定められている。
今回は脅威が目に見えない分、市民の反応は薄く、恐慌も狂乱も見られなかった。
不安、というよりは不満で彩られた顔の民衆がヴェルスーズの兵に追い立てられるようにしてシェルターへと駆けて行く光景を、シオンは宿の窓から見下ろしていた。
室内にはガリアンしかおらず、彼は床に座って狙撃銃の手入れを念入りに行っている。
避難を促しに来た兵士にはアウレラの書状を見せて帰ってもらった。他の客は出て行ったのか、少し前の騒がしさが嘘のように廊下の足音は止んでいた。
明日の戦術はすでに決まっていた。シオンがフェリシアと話すあいだ、エリアナ、ヴィンス、ガリアンにロゼリアを足止めしてもらう。
その為の準備として、ヴィンスとエリアナは買い出しに行っている。避難は区域ごとに順番に行われる。準備の時間を考慮して商業区域は一番最後に回されているので、金に色を付ければ店仕舞いをしていても多少の融通はしてもらえるはずだ。
「お嬢を人間に戻せたとして……どうやったら救ってやれるんだろうな」
窓の外へ流れて行く油の匂いに眉を寄せつつ、シオンは首を傾げた。
「どうしてガリアンさんは空の解放軍に協力していたんですか?」
そこまでロゼリアの身を案じるのならば、空の解放軍の思惑に乗らなければよかったのに、と考えてしまう。
「俺はあの屋敷でお嬢の帰りをずっと待っていた。ルクシーレにある本邸は旦那様の弟が継承したが、お嬢は行方不明扱いだったからな。別邸はお嬢の資産ってことになって、放置されててよお。維持するのにも金はかかるから他の使用人はみんな出て行っちまったが……」
遺産の相続問題は国によって違うだろう。シオンはヴェルスーズの法には明るくないのでそういうものなのか、と黙って聞く。
「一年くらい前になるか。お嬢は帰って来た」
レトの話と合わせて欠けたピースをはめて行く。つまり、五年前両親に殺されかけたところをエリックたちに助けられたロゼリアはそれから四年ほど彼らと行動を共にしていた、ということか。
「帰って来たお嬢は明らかに変わっちまってた。口数は減ったし、俺が話しかけてもまともに反応何てしねえ。屋敷に留まってたのは三日くらいか。別邸に残ってたアルバムや小物――思い出って言った方が正確か。そういうものを片端から処分してったのさ。その為に帰って来たんだろうな」
どこか遠くを見るように、ガリアンの双眸は細まる。
「そんときの目を見てなあ。悟ったのさ。こいつは何を言っても響かねえってな。心が壊れちまってたんだよ。お嬢は復讐のことしか考えてねえ。俺が何を言ったって、どうしようもなかったんだ。帰って来てからのお嬢には俺は透明人間みたいなもんさ」
「それは……」
「お嬢を迎えに来た日、居合わせた俺に首魁が言った。協力するなら、お嬢の未来を悪いものにはしねえってよ」
「その言葉を信じたんですか?」
「信じてもいいと、なぜか思えちまったんだよなあ」
シオンは魔性の色を持つ黒曜石のような瞳を思い出す。エリックの眼差しには、他者を従わせ、無条件に信じさせるような――そんな力がある気がした。レトはそれをカリスマ力と評していたけれど。言われてみると適当に思えた。
「信じられねえかもしれねえが、昔のお嬢はもっと可愛げのある子供でな。俺たち使用人は目に入れても痛くないほど可愛がってたんだよ。つっても、旦那様に睨まれちまうから、わかりやすい愛で方じゃあなかったかもしれんが」
主人夫妻が迫害している子をあからさまに可愛がるのは、確かに難しいだろう。
「お嬢が養子なのは知ってるか?」
「レトから聞きました」
「あの悪魔か……」
愛くるしい容姿に不釣り合いな呼び名だが、苛烈な発言を思い出せばガリアンの苦い表情は納得できた。
「旦那様も奥様もレイシアお嬢様を溺愛されててなあ。お嬢への風当たりはそりゃあもう強かったのさ。けど、養子だからってお嬢に罪はねえだろ? だから使用人のあいだで夫妻の代わりに愛情を注ごうって暗黙の了解ができたんだ」
「それで、ロゼリアの生存を信じてあの屋敷で彼女の帰りを待っていたんですね」
ロゼリアは当初、魂の竜を歌ってヴェルスーズを滅ぼすつもりだったに違いない。それがフェリシアの介入で叶わなくなってしまった。幻妖種に成り果ててもなお憎しみが消えていないのなら、その憎悪は間違いなくルクシーレの街に向けられるはずだ。
街を破壊しつくせば、彼女の鬱憤も少しは晴れるのだろうか。シオンにはわからなかった。
それはガリアンも同じなのだろう。銃を見下ろす眼差しは曇っている。彼には空の解放軍のことをもっと教えてもらいたいのだけれど、今は訊くべきではないのかもしれない。
すべての問題が片付いたら改めて尋ねよう。そう決めて、シオンは言葉を選んだ。
「どうすればロゼリアを救うことができるのかは、僕にもわかりません。でも、ガリアンさんのように心配してくれる人がひとりでも居るのなら……可能性はゼロじゃないって、思います」
復讐と言う目的に向かって突き進んでいたロゼリアには見えていなかったもの。傍に居てくれる存在があるのなら、未来に希望を見い出すこともできるはずだ。その存在に気づくことさえできれば。
ロゼリアの身を案じているのは、ガリアンだけではない。初めてできた友人の存在にはしゃいでいたルクレティアの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
まだ三日と経っていないのに。
――シオン、と。
そう呼ぶ馴染んだ声を久しく聞いていない気がした。
「……会いたいな」
無意識の内にこぼれ落ちてしまった本音にハッとする。
「あん? 何か言ったか?」
「……いえ、なんでもありません」
首を振って、晴れ渡った青空を見上げる。
事態がどう転んでも、明日になればすべての決着が着く。明日が終わったとき、シオンの隣にルクレティアが居てくれますように、と。
大嫌いな神に向けて祈っておく。たぶん、空の竜は叶えたくない願いだろうけれど。
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