――名前がないの、と。
初めて会ったとき、少女は泣いていた。
フェリシアでしょう?
そう答えると、少女は更に激しく涙をこぼした。そんなの名前じゃない、と。みんな同じじゃ、名前の意味なんてない。わたしはわたしなのに、そう呼ばれるたびに、要らない子だと言われているみたいで悲しい、と。
泣きじゃくる少女にそれなら、と。
ないなら付ければいいだけじゃないかな?
当たり前のことを提案してみたのだけれど、愛らしい顔はたちまち曇ってしまう。
そんなことをしたら、怒られる。しきたりだもの。
めいっぱいの不安と、ほんの少しの期待。そんな少女に、悪戯っぽく微笑んでみせた。
だいじょうぶだよ、他の人がいるときには呼ばないから。
ふたりきりの時にだけ呼ぶ名前。ふたりにしかわからない特別な意味をこめた、秘密。
子供の頃の他愛のない約束は、真実を知った今となっては、許されない大罪だったと思う。
けれど――。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
まぶたを持ち上げると、ぼんやりとした視界に小さな女の子の顔が映り込んできた。
「ティア……?」
「残念。わたしはあなたのお人形さんじゃないわ」
くすくすと、鈴の鳴るような笑い声が響く。聞き覚えのない声にシオンの意識は急速に覚醒した。がばり、と身を起こすと、
「おはよう、空の人」
そう言って間近から微笑んだのは、見覚えのない女の子だった。
肩まで伸ばされた桃色の髪は緩く巻かれており、ヘッドドレスで飾れている。瑞々しい若葉を思わせる大きな瞳に、陶磁器のように白く滑らかな肌。青を基調としたドレスを纏った少女は天使のように愛らしい。
シオンはソファに寝かされていたらしく、少女は背もたれに頬杖をついてこちらを見下ろしていた。
「君は……?」
「自己紹介をしましょうか。わたしはレト。彼はリッくん」
レトと名乗った少女の指差す方向を振り返ると、壁に背を預けて立つ青年の姿があった。
年の頃は二十半ばほど。肩まで伸ばされた緩やかに波打つ髪はヴェルスーズでは珍しい夜の色。左眼を隠す眼帯や長身を隙なく覆うロングコート。それにブーツに至るまで、すべてが漆黒の装い。感情の窺えない右眼が、ふたりを静観していた。
室内にはソファの他にグランドピアノと書棚が置かれ、開け放たれた窓から吹き込む風でレースのカーテンが揺らめいていた。まるで貴族の私室のよな内装だ。
ぼんやりとしていた頭がだんだんとはっきりしてきて、シオンは何が起きたのかを思い出す。
「ティアは……っ!」
立ち上がりかけたシオンを制するように、じゃらり、と鎖の鳴る音が響いた。そこでようやく、自身を拘束する冷たい感触に気づいた。右手は手錠で拘束され、鎖はソファを固定する留め具に繋がれている。
右膝に走った鈍い痛みに視線を滑らせると、破れたズボンの隙間からは白い布がちらついていた。撃たれた膝には包帯が巻かれているようだ。拘束はされているけれど、扱いは丁寧。
「お人形さんは別の部屋でロゼリアと一緒よ。空の人はここでわたしたちとお話しましょう?」
混乱するシオンを落ち着かせるようにレトの弾んだ声がかかる。
空の人というのはシオンで、お人形さんはたぶんルクレティアのことだろう。彼女はどうやらロゼリアと共にいるらしい。
水晶谷でのロゼリアの刺々しい雰囲気を思い返せば、彼女とルクレティアが共にいるというのは不安を掻き立てられた。
そんなシオンの心中を読んだかのように、涼やかな声音が耳朶を打った。
「サージェントの目的は魂の竜だ。心配せずとも、あの娘に危害は加えないだろう。俺たちもお前をどうこうするつもりはない」
青年の物言いから察するに、魂の竜は奪われてしまったようだ。苦労して手に入れた楽譜を横から掻っ攫われてしまうだなんて、己の迂闊さが恨めしい。ロゼリアのことを怪しみながらも放置していたシオンの甘さが招いた結果といえる。
魂の竜を取り返すにしても、まずは置かれた状況をきちんと把握しなくてはならない。
「ええと……リッくん?」
「エリックだ」
困惑とともに意を決して呼びかけてみたら即座に訂正された。聞き覚えがある名前だなと思ったけれど、珍しい名でもない。だから、深く考えることはしなかった。
「あなたたちは何者なんですか?」
「ふふん。聞いて驚きなさい。わたしたちは空の解放軍よ。それでね、リッくんはみんなのリーダーなの。しゅかいさまって呼ばれるえらーい人なんだからっ」
えっへん、と胸を張るレト。
空の解放軍。脳裏に、空の竜やギデオンとの会話が蘇る。飛行船で聞いたのは、確か――。
「帝国から空の独立を目指しているっていう組織、でしたよね……?」
「ええっ、そうなのっ? リッくんってばだいた〜んっ! でもでも、それはいくらなんでも夢を見過ぎだと思うわっ」
シオンの確認に、なぜか仲間のはずのレトが驚きの声を上げた。大仰な反応にシオンがぎょっとしていると、そんな彼女につかつかと歩み寄ったエリックが、小さな頭をぺしん、っと叩いた。
「リッくんってばひど〜い。ぼーりょくはんたいっ」
「わかっていて悪ノリするからだ」
ため息を吐いたエリックは涼しげな美貌に険を滲ませる。
「どうやら話に尾ひれがついているようだな」
「うーん。みんな行く先々で情報集めの為にホラを吹きすぎなのよね。わたしたち、神曲聖歌の情報を集めてるだけなのに」
やはり、彼らの目的も神曲聖歌らしい。だから魂の竜を奪われたのか。しかし、その割にはレトの発言が引っかかった。
「僕が聞いた話が尾ひれなら、どうして神曲聖歌を集めているんですか?」
「……来たるべき時に備えて、だな」
「…………」
煙に巻くような答えに、シオンはなんとも言えない気分になる。ルクレティアからの疑問を当たり障りなくかわしてきたシオンだけれど、他人に同じことをされるとこれはちょっと厄介だなあと思ったのだ。
胡乱なシオンの眼差しに思うところがあったのか、エリックは言葉を付け加えた。
「俺たちはただ情報を集めているだけだ。楽譜を求めているわけではない」
「それなら、どうして僕らから魂の竜を奪うような真似を?」
「答えは簡単よ。わたしたちは要らないけど、ロゼリアには魂の竜の力が必要なの」
レトがにっこりと笑って言う。シオンは眉をひそめた。
疲れのせいか、単に起き抜けで思考が働いていないのか、上手く考えをまとめることができない。
「お前こそ、なぜ神曲聖歌を集めている?」
レトから視線を移すと、黒曜石を溶かし込んだかのような魔性の瞳がじっとこちらを見つめていた。
アウレラにそうしたように、はぐらかすこともできた。しかし、なぜだろうか。シオンの口からは自然と素直な答えがこぼれ落ちた。
「……叶えたい願いがあるからです」
漆黒の瞳に、失望の色が宿った。
「神曲聖歌が願いを叶えるというのは人の生み出した幻想だ。アレにはそんな力は備わってはいない」
シオンは驚いた。神曲聖歌は幻妖種をオルラントから消滅させるための装置のようなもの。しかし、そのことは七神竜にゆかりのあるものしか知り得ない情報だと思っていたから。
――空の解放軍とやらには気を付けるといい。
空の竜の言葉が蘇る。このことを知っていたから、あの神さまは警告して来たのだろうか。
「……知っています。でも、嘘じゃありません。僕は叶えたい望みの為に神曲聖歌を集めています」
確かに、神曲聖歌を完成させても願いを叶える力はない。しかし、シオンの望みはその先にあるのだ。
「…………」
疑われているのか、それとも元よりそれほど興味がなかったのか。返ってきたのは沈黙のみ。静寂に居心地の悪さを感じて、シオンも尋ねてみた。
「どうして神曲聖歌の力のことを知っているんですか?」
「一般常識だからだ」
「一般じょーしきだからよ」
平坦なエリックの声と、からかうようなレトの声が綺麗に重なる。
そんなはずないだろう、と思いながら、察せたものもある。
「要するに、答えるつもりはないってことですね……」
シオンがため息を吐くと、空気の動く気配がした。顔を上げると、エリックが部屋から出て行こうとしているところだった。
「俺の用は済んだ。先に行く。お前も気が済んだらさっさと来い。巻き込まれる前にヴェルスーズを発つ」
「は~い」
――巻き込まれる?
不穏な言動を訝しく思うと、レトの愛くるしい声が思考を遮った。
「空の人は、素直なひとなのね」
「え?」
「リッくんの質問に答える義理はないでしょう? でも空の人は律儀に答えたわ。嘘じゃなくて、本当のことを」
「嘘かもしれないよ」
「人を見る目には自信があるの。醜い大人をたくさん見て育ったから。空の人からは嘘の匂いがしないわ。優しさと誠実な人の匂いがする」
無垢な瞳がよく知る少女の眼差しと重なって、シオンはぎこちなく視線を逸らした。
「……僕は、誠実なんかじゃないよ。一緒に旅をしてる女の子にだって隠し事をしているんだから」
真実を話さないのはルクレティアの為。ずっと自分にそう言い聞かせてきたし、今でも間違った考えではないと思う。
真実のことなんて、話せるわけがない。
――このオルラントの未来のために君は消えなくてはいけなくて。その因果を結んだのは他の誰でもない僕なんだ。
なんてこと、どうしたって、言えるはずもない。
真実を知ったら、ルクレティアはたぶん、消えてもいいと言うだろう。
彼女の口からそんな悲しい答えを聞きたくはなかったし、自らの罪を正直に告白できるほど、シオンは強くないのだ。
一途にシオンを慕ってくれるルクレティアの無邪気な笑顔を見るとしんどくて。狂おしいほどの罪悪感から、彼女に謝罪したくなることもある。
シオンが進むべき道はたったの一つだ。
選んだ道に後悔はないけれど、重くて苦しいから、逃げたくなる。最後まで足を止めないためにルクレティアをあの部屋から連れ出したのに、彼女の笑顔を見るたびに、シオンは犯した罪から目を背けたくなるのだ。
ふわり、と頭を撫でられる気配がした。目線を上げると、レトの小さな手のひらがシオンの髪をあやすように撫でていた。
年下の女の子に慰められる恥ずかしさを感じるよりも先に、シオンは目を瞠る。
ドレスの袖口から覗くか細い手首。そこには、刃物で斬りつけられたような無数の傷痕が走っていた。古い傷のようだけれど、柔肌にびっしりと並んだ裂傷はひどく痛々しい。
シオンの動揺には気づいていないのか、鈴を転がすような声が静寂を震わせる。
「必要な嘘を吐くのは、とっても大事なことよ。だって神さまって意地悪なんだもの。この世界は本音だけで生きていくのは厳しいわ」
見た目から推測するにレトはおそらく十四、五歳だと思うのだけれど。それにしては大人びた発言だ。
今見たものには気づかなかったフリをして、シオンは苦笑する。
「達観したことを言うんだね」
「こう見えて人生経験がほーふなの」
にっこり微笑んだレトは、ふと目を瞬かせた。
「あ、わかったわ。空の人はいつも吐きたくない嘘を吐いているから、リッくんには素直だったのね」
「ただ雰囲気に呑まれただけだよ。何となく、逆らい難かったというか」
エリックの持つ独特な雰囲気に気圧されてしまったような気がする。すると、レトは得意げにまた胸を張った。
「リッくんのきょーれつなカリスマ力に屈したのねっ! うん、うん。リッくんはカッコいいもの。自然のセツリだわっ」
どうやらレトは、あの青年のことを強く慕っているようだ。何だかよくわからない状況に置かれてしまったけれど。
見てて和む女の子だなあ、とシオンは微笑ましく思うのだった。
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