シオンが図書館で調べ物をしている昼下がり。ルクレティアはロゼリアに連れられて、カフェに来ていた。
テラスに設けられた木造のテーブルからは微かに木の香りがして、おだやかな陽だまりと相まって、居心地のいいお店だった。
飲んでも食べてもいい結果には繋がらないので、ルクレティアは食欲がない、と言い張って最初は注文を控えようとした。しかし、飲み物すらも頼まないのは不自然かと思い直し、ロゼリアが頼んだものと同じアイスティーだけ注文した。
シルヴァリーの蜜を加えた琥珀色の飲み物からは甘い匂いが漂ってくる。さぞ美味しいのだろうが、ルクレティアにとっては無味の液体でしかないのが悲しいところ。
ふたりの会話は雑談ばかりの他愛ないもので、魂の竜に関することはほとんど触れていない。触れたところで実りがないのは互いにわかっていたからだ。
一見すると同年代にも見える少女との他愛ない会話は初体験で、ルクレティアはシオンに引け目を感じつつも楽しい時間を過ごしていた。
ルクレティアがヴェルスーズに来る前はマリステラに長期滞在していたことを話すと、ロゼリアが黄緑の瞳を細めた。
「ルクレティアとシオンは、恋人同士なのか?」
ストローをくるくるとかき混ぜるたびにカラン、と鳴る涼しげな音を楽しんでいたルクレティアは、首をかしげた。
「恋人、ってなあに?」
「え、なに? ……何だろう?」
馴染みのない単語だったので尋ね返したのだけれど、ロゼリアはたちまち困ったような顔になる。
「ええと、……そう、例えばふたりきりで遊びに出かけたりする仲、とか?」
「シオンとはいつも一緒よ?」
今は別行動だけれど、仕事以外でシオンがルクレティアの側を離れることは滅多にない。今日だって、ある意味では仕事の範疇だろう。
「そうだった……えぇと、つまり、ルクレティアはシオンが好きなのか?」
ルクレティアはまたも首をひねる。どうしてそんな当たり前のことを尋ねてくるのか。
「もちろん好きよ? でもロゼリアのことだって好き。初めてできたお友だちだもの」
こんな風に一緒におしゃべりできているのだ。ロゼリアは友人と表現しても間違っていないはず。にこにこと微笑みながら頷くと、ロゼリアはどうしてか頭を抱えてしまう。
「そういう好きではなくて。うーん、例えば、シオンのことを何でも知りたい、と思ったりはしないか?」
よくわからないけれど、ロゼリアの言葉から読み解くに、好きには種類があるらしい。恋人というのは、友達に対する好きとは違う想いを抱いた相手のことなのだろうか。
ロゼリアがどうしてそんなことを気にするのかわからないけれど、ルクレティアにとっては少し答えに困ってしまう質問だった。
「……わたし、シオンの知らないことはたくさんあるわ。でも……」
昨夜うなされていたシオンを思い出すと、不用意に尋ねるのは憚られた。シオンを困らせて嫌なことを思い出させてしまうのは、彼を傷つけてしまうことになるのだ。
「……寂しい気持ちはあるけど、困らせるのは嫌だわ」
ルクレティアはシオンが大好きだから、苦しい想いはして欲しくない。それだけなのだけれど、ロゼリアからすると納得できない関係なのだろうか。
「ロゼリアは、わたしとシオンの関係が気になるの?」
「年頃の男女がふたり旅だなんて、誰だって気にすると思う」
それは知らなかった。世間というのはルクレティアにとって難解なことがたくさんある。
「ルクレティアは私のことも好きだと言ったが。もし彼の故郷に恋人がいるとしたら、どう感じる?」
ルクレティアは目を瞬かせた。
恋人というのは、たぶん何でも知りたいと思うくらい特別好きな相手、ということだろう。
ルクレティアはふと、シオンと初めて出会った、あの地下部屋での会話を思い出す。
あのときの彼はひどく切なげで、終始不安そうだった。ルクレティアの言葉に涙を零すほどに。
偶に、思うときがある。ルクレティアと出会う前、彼は誰かに楽譜を書いていたのではないか、と。もしかすると、それがロゼリアの言う恋人に当たるのかもしれない。
傷つくかと言われると、ルクレティアにはよくわからない。調律師のシオンが誰かのために楽譜を書くことは当たり前で、その誰かが恋人という特別な人でも、ルクレティアとシオンの関係に何か影響が出てしまうだろうか。
答えを返せずにぐるぐると悩んでいると、ロゼリアが苦笑した。
「意地悪を言って悪かったよ、ルクレティア。仲が良さそうなのに恋人ではないなんて、不思議な関係性だと思っただけなんだ」
「……シオンは、ロゼリアと一緒で大事な友達よ」
何となく、違う気もする。でもそれが一番適当だとも感じた。ロゼリアは甘い蜜の香り豊かなアイスティーを一口含み。
「ところで。もう一人の友達から相談があるんだが……」
「なあに?」
言いづらいことなのか、茶目っ気たっぷりの切り出しに反して、ロゼリアは躊躇うようなそぶりを見せる。
ルクレティアが明るい笑みを浮かべて先を促すと、
「実は、今朝方例の件で家族と揉めてしまって……。家には居辛いんだ」
ロゼリアの足元には大きめのトランクケースが置かれている。随分と荷物が多いなとは思っていたのだけれど、そういうことだったのか。
例の件、というのは生贄の儀式のことだろう。ロゼリアは話したくなさそうなので聞けずにいるけれど、きっと多くの苦悩があるのだろう。
「だから、その。今夜だけふたりの部屋に泊めてもらえないかな、と……あ、もちろん、代金は払うから!」
シオンの借りている宿は一部屋につき滞在日時で代金を納める形になっている。ふたり部屋ではあるけれど、宿泊者が増えても支障はないし、追加料金などもない。
ルクレティアはもちろん構わないけれど、シオンは何て言うだろうか。彼は優しいし、ロゼリアは命の恩人なのだ。たぶん嫌な顔はしない。
「ひとりはその、不安だし……」
ロゼリアの切れ長の瞳が翳りを帯びて揺らめくと、途端に庇護欲をそそられた。
確かに、女の子が一人で宿に泊まるのはよくない気がする。気が強そうに見えるけれど、ロゼリアは口調が強いだけでいい子なのだ。
ぎゅっと抱き着きたくなる衝動をこらえて、ルクレティアは彼女の頼みに頷くのだった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
シオンが宿へと戻ったのは、日が暮れ始めた夕刻のこと。
地下で管理された書物は貸出が禁止されていたため、ヴェルスーズの歴史が記された本を一般の図書館から適当に借りて帰ると、ルクレティアからロゼリアを泊めることになったと聞かされた。
年が近いだろうロゼリアと同じ部屋で一晩過ごす、というのはシオンとしては悩ましいものなのだけれど、ルクレティアもいることだし、彼女が楽しそうだったので承諾した。
宿泊費は払う、というロゼリアの強固な意見をやり過ごしたシオンは、ルクレティアが浴室へ姿を消すと、借りてきた書物に目を通していた。
ヴェルスーズの風習や政、歴史が書かれているけれど、魂の竜に携わる記述は一切なかった。
活字を追いつつ正面のソファに座ったロゼリアの様子を窺うと、紅茶を口にしつつも、手持ち無沙汰な雰囲気を隠せてはいなかった。カーテンの向こうから差し込む赤い夕陽に照らされた瞳と目が合う。視線を外すのも気まずい気がしたので、シオンは柔らかな笑みと共に首を傾げた。
「ロゼリアは、贄の儀がいつ始まったのか、知っていたりするかい?」
「……すまない、詳しいことはよく知らないんだ。ずっと昔からの風習、としか父さまからは聞かされていない。市民に知られないためにきっと王家が厳重に管理しているんだと思う」
「そう……」
「力になれなくて、すまない。私の問題だというのに……」
望み薄なのはわかっていたので構わないのだけれど、途端にロゼリアは肩を落としてしまう。
「いや、いいんだよ。何百年も習慣になっている儀式をなんとかしようって言うんだから、簡単にはいかないのはわかってる」
魂の竜から託されたという聖歌が判明すればいいのだけれど、それができるのなら贄を捧げる、なんて残酷な風習は続いていないはず。
現状は八方塞がりなのだけれど、ロゼリアにそんなこと言えるわけもなく。
焦りを微笑みの下に押し込めて再び書物に視線を落とすと。
「ルクレティアとの付き合いは、長いのか?」
急な質問に、シオンは戸惑いつつ顔を上げる。ロゼリアの瞳には好奇心が滲んでいた。
彼女が何を言わんとしているのかが察せないほど、鈍くはない。
ロゼリアの第一印象は男勝り、というものだったけれど、この手の話が好きなのは、女の子の共通した部分か。
少し考えてから、答えた。
「ティアと旅を始めてから、一年半と少しが経つかな」
「なんだ、案外短いんだな。随分と距離感が近いからもっと長いのかと思っていた」
確かに、傍目にはそう思われるだろう。他人から見た自分たちの関係性がどう映っているのかなど、想像に難くない。
あの地下部屋でルクレティアと言葉を交わしてから、随分と時が経ったような気がする。
本で得た知識しか持っていなかった彼女は世界に触れて、日に日に成長していく。けれど、実際には対して月日は重ねていない。
「……あ、れ?」
ふと、シオンの中で何か違和感が生まれた。
「どうした?」
「ああ、いや」
生返事をしつつ、シオンは自身の考えに集中する。頭の中では今日読んだ伝承の文が渦を巻いている。年月。積み重ね。何かが引っかかる。こういうときの自分の直感は、大事なもの。
ヴェルスーズの慣習が始まったのは魂の竜が眠りについたときから。創世記によると、空の竜以外の七神竜は空の世界を創造した際に力を使い果たし、眠りについたとされている。それなら――。
「大変だわ、シオン!」
考えがまとまりかけたところで、馴染んだ声がかかった。
思考を中断させられたことに苦笑を浮かべて、シオンは浴室から出てきたルクレティアを見る。絹糸のような銀髪はしっとりと濡れていて、乾ききってはいない。小言を言うのはロゼリアの前なので堪えて、シオンは尋ねた。
「どうしたんだい?」
「大変なことに気づいてしまったの」
ひどく深刻な顔で言うので何事かと身構えてしまうと。
「この部屋には、ベッドが二つしかないわ」
とても当たり前のことを言われてしまった。
「僕はソファで眠るから、ティアとロゼリアで使えば問題ないと思うけど」
最初からそのつもりだったのでそう答えると、正面のロゼリアから待ったがかかった。
「いや、待ってくれ。そこは、私がソファで寝るべきだろう。あなたはベッドを使ってくれ」
「女の子にそんなことさせられないよ」
「それなら、わたしがソファを使うわ」
名案を思いついたとばかりにぽん、と手を叩くルクレティアに嘆息する。
「ティアも女の子でしょ」
「でもわたしはドー……」
機械人形、だなんて言ってロゼリアに詮索されるのは困ってしまうので、ルクレティアの背後に回ったシオンは彼女の小さな口を塞ぐ。腕の中でじたばたともがいたあと、振り返ったルクレティアはめいっぱいの抗議をしてきた。
「昨日は大変だったし、今日だってたくさん調べ物をしてシオンは疲れているはずだもの。きちんとベッドで寝るべきだわ」
「それとこれとは話が別なんだよ。僕は構わないから、ティアが……」
「それなら、私とルクレティアが同じベッドで眠るのはどうだろう? 少し手狭かもしれないが、妥協案としては悪くないと思うんだが」
「え」
ロゼリアの意見に、ルクレティアの顔色が悪くなる。
あ、とかうう、とか唸っている少女に苦笑して、シオンは異論を挟もうとした。しかし。
「うん。そうね、それがいいわ。そうしましょう!」
「……いいのかい?」
シオンが尋ねると、ルクレティアはにっこりと微笑む。
「誰かと一緒に寝るのなんて初めてだもの。楽しみだわ」
うきうきと声音を弾ませた彼女は、ロゼリアに話しかけに行ってしまう。
この娘のこういう優しさは長所なのだけれど、もうちょっと自分の事情を優先させてもいいのではないか、とも思ってしまう。
水を差すのも憚られたので、シオンはティアがいいなら、と答えるに留めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!