朝陽を受けて鈍く輝く銃口を前にしても笑みを湛えたまま、フェリシアの唇から聖歌が紡がれた。
【此に捧げるは、魂の書。神の一柱たる魂の竜が選びし 紡ぎ手が綴る――神の唄】
ほんの数小節。それだけで、ロゼリアは呑まれた。引き金を引く気力を削がれ、視線は目の前の少女に釘付けに。
【――古より伝わりし旋律は、誰が為。織りなす夢は、誰のもの】
ルクレティアの聖歌を聴いたときもその歌声に圧倒されたけれど。違う、と本能が訴えた。美しいだとか綺麗だとか、そういった表現すべてを超越するような。魂そのものを震わせる、圧巻の歌声だった。
そしてそれは目の前の少女がルクレティアではなく七神竜が愛したフェリシアという少女なのだと、強く意識させられた。見た目は同じ。当たり前だ。しかし、確かに別人なのだと感じる。それほどまでに、次元が違った。
フェリシアが目醒めたのならば、ルクレティアは消えてしまったのだろうか。ルクレティアという人格は、フェリシアが眠っているあいだその肉体を動かすために生まれた自我なのだ。彼女が目醒めた今、消えるのは当然の帰結。
シオンはどんな反応をするのか――彼が悲しめば、ルクレティアの勝ち。フェリシアの目覚めを喜ぶのなら、ロゼリアの勝ちだ。
【まどろむ魂に、祝福を。終わりの世界に救済の灯火を】
朝陽を背に朗々と歌う少女の姿が、ぼんやりとブレた。視界がチカチカと眩んで、ロゼリアは自身の変調に気づく。
感動に震えて身じろぐことすら忘れていた身体の硬直が、別の要因で動けなくなっていた。
頭がぼんやりと重く、四肢が痺れるような感覚に銃を取り落す。全身が熱っぽく、悪寒が止まらない。いつのまにか、ロゼリアは苦痛しか意識できなくなっていた。
頭の重さは、締め付けるような頭痛に。身体の熱っぽさは、血液が沸騰するような熱さに。どくん、どくん、と心臓が脈打つごとに吐き気がして、ロゼリアは座り込んでしまった。
「……っ、あ、あああぁああっ!」
全身を駆け巡る激しい痛みに、とうとう大声をあげる。もう、フェリシアの歌は耳に入って来なかった。
熱い、痛い、苦しい、そんな意識がぐるぐると脳を犯す。床に転がり、胸をかきむしり、苦悶を必死に堪えていると、ふっと影がかかった。
赤い子竜を胸に抱いたフェリシアが見下ろしてくる。いつのまにか、聖歌は終わっていたらしい。
「魂の竜にはね、遺伝子をぐちゃぐちゃにする力があるの。幻妖種が聞くと細胞を破壊されて存在が消滅してしまうんだけど……人の遺伝子をかき回すと何が生まれるか、知っている?」
「イ、デン、シ?」
呂律が回らず、舌足らずな声が漏れ出る。フェリシアがにっこりと微笑んだ。
「あなたはこれからわたしの可愛いお人形になるの。ねえ、何がしたい?」
したいこと。ロゼリアの望み。それは、ヴェルスーズを――。
声は出なかった。代わりに喉からぐおお、と獣じみた音が漏れ出た。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
シオンと別れたレトが格納庫へ着くと、二機の飛空艇の前でエリックと大男――ガリアン・ハーバードが言い争っていた。
「このままロゼリアを置いていくんですかいっ!?」
憤然と抗議しているガリアンに、エリックはそっけなく答えた。
「天秤は最悪な方向に傾いた。すぐにこの島を離れる必要がある」
「お嬢を見殺しにするんですかっ?」
予想外の事態に随分と平静を欠いている様子で、久方ぶりに聞く固有名詞だった。ガリアンはロゼリアに並々ならぬ想いを抱いている。彼女を置き去りにすることに強い抵抗があるのだろう。
「サージェントとは一時の協力関係だ。手を貸す義理はない。近づき過ぎればレトにどんな悪影響が出るか知れない」
エリックはとっくに気づいていたようで、振り返った黒曜石の瞳と目が合うと、レトはにっこりと微笑んだ。
ガリアンは厳しい顔を更に険しくする。苛立ちと嫌悪の空気が大柄な体躯から滲み出ていた。エリックが急いでいるのは、レトのためだ。明確にロゼリアよりもレトを優先する姿勢を取ったエリックに不満があるらしい。
レトは呆れる。こんなことになってしまったのは、ロゼリアのスタンドプレーのせいなのに。当初の計画ではシオンの人間性を見極め、彼にロゼリアを説得してもらい、復讐を諦めさせる手筈だった。
魂の竜を歌うのはエリックたちがこの島を離れるまで待て、と告げてあった。
だというのに、先ほどの揺れ。何が起きたのかは、想像に難くない。フェリシアの目醒めをレトは肌で感じ取っていた。
なおも言い募ろうとするガリアンに見せつけるように、レトはエリックの腕に抱きついた。
「リッくんは、ロゼリアよりわたしが大事なの。お嬢さまが心配なら、あなたは残ればいいんじゃないかしら?」
見下ろしてくる鋭い眼光に負けじと冷ややかな眼差しをぶつける。睨み合いは長くは続かなかった。舌打ちしたガリアンは格納庫から出て行った。
すれ違うガリアンに、エリックは何も言わなかった。ロゼリアだけでなく彼ともここでお別れだ。
「……行っちゃった。引き止めなくてよかったの?」
エリックが何も言わなかったのをレトは意外に思っていた。これから起こる災厄にガリアンが巻き込まれないよう、エリックは引き留めたがると思っていたのだけれど。
「俺たちには不要な縁だろう」
「そうよね! リッくんにはわたしがいれば十分だものね!」
「そういう話じゃない……」
嘆息したエリックは四人乗りの飛空挺に乗り込んでいく。彼を追って助手席に座ったレトは、エリックの横顔に声をかけた。
「助かるかしら?」
「最善の策は取った。これでどうにもならないのなら、光明の竜の力もその程度のもの、ということだ」
「たいして役に立たないのよねー未来視って。ロゼリアのことだって、結局上手くいかないし。空の人に説得してもらおうと思ったのに、どうしてフェリシアを目醒めさせちゃうのよ〜」
「そもそもが、他者を救おうとするのが傲慢だ、ということだろう。俺たちにはどうしようもないが空の調律師なら、あるいは……」
エリックの顔の曇りは、レトだから気づくもの。ガリアンを突き放した彼だけれど、ロゼリアの死を望んでいるわけではないのだ。
「リッくんは優しいね。でも仕方のないことよ。この世界は意地悪なんだもの。人にはそれぞれ役割があるでしょう? ロゼリアを助ける因果は、わたしたちの手の届く範疇になかっただけだわ」
レトは大好きな青年に向けて、微笑みかける。
「だって、リッくんの役目はわたしを助けることだもの。そうでしょ?」
レトが笑いかけると、エリックは眼帯に覆われた左目をそっと撫で、行くぞ、と呟いた。
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