ロゼリアは、結局目を覚ましてはくれなかった。今はエリアナが借りている部屋で眠っているけれど、街が落ち着いたら医者に診てもらうそうだ。その前に意識が戻ってくれればいいな、とルクレティアは思う。
目が覚めたら旅の仲間が増えていてびっくりした。事態が収拾したときには誰もが疲弊していてゆっくり話せる状況ではなかったから、明日になったらたくさんお話ししたい。
ポツポツと明かりが灯り始めた街には避難していた住民が戻り、元の賑わいを取り戻しつつあった。
窓の外から見下ろす景色はこれまでと変わりなく、ルクレティアにとっては目まぐるしいほどにたくさんのことがあったのだけれど、ヴェルスーズのほとんどの人たちが何も知らない。この街に来てから数日しか経っていないけれど、濃密な経験からルクレティアは世界とはそういうものなのだ、と理解しつつあった。
扉の開く音に、ルクレティアは弾かれたように振り返る。宮殿に報告に行っていたシオンが帰ってきたのだ。
「おかえりなさい、シオン!」
「……ただいま、ティア」
ルクレティアが駆け寄ると、シオンは少し照れ臭そうに返事をする。緊迫した状況が続いていたから改まって話をするのはこれが初めて。よくわからないことが多くて、ルクレティアも緊張を隠せない。
シオンも察しているのだろう。促されるままソファに座って、対面に彼が腰掛ける。
「ティアに話しておかないといけないことがたくさんあるんだけれど……その前に、僕と離れている間に何があったのか、聞いてもいいかい?」
ルクレティアがロゼリアから聞いたことを話すと、シオンはそう、と呟き。
「……ティアから、僕に訊いておきたいことはある?」
ルクレティアの想いはロゼリアに話した通りだ。ルクレティアが消えることをシオンが望んでいるだなんて、思わない。だから知りたいことは二つだけ。
「シオンが神曲聖歌を集めたいのは、オルラントを救うためなの?」
「スタンフォードの役目でもあるから果たせたらいいな、とは思うよ。でも一番の理由ではないかな」
ルクレティアの疑問に、シオンは緩やかに首を横に振った。
「ロゼリアが君に話した通り神曲聖歌は幻妖種を滅ぼすための聖歌。願いを叶えるなんて、逸話だ」
そこで言葉を切ったシオンの瞳が深い色を帯びた。
「でも、空の竜は違う。空の竜は帝国で眠っている。神曲聖歌の完成によって目覚め、完全に力を取り戻す。空の竜はどんな楽譜でも産み出す力をもっている。文字通り、願いを叶えてもらうことができるんだよ。竜にその気があれば、だけれどね」
神曲聖歌には願いを叶える力はないけれど、空の竜には可能で。それはつまり、シオンには叶えたい願いがあるということ。
「シオンは、何をお願いするつもりなの?」
「僕は、ティアの体を元に戻したい」
「え……?」
ルクレティアが面食らうと、立ち上がったシオンが彼女の前に回り込み、身を屈めた。伸ばされた手が頬に触れると、綺麗な顔が苦しそうに歪んだ。
「僕と君は同い年だった。創造の書の力で創り変えられた身体は成長しないし、味覚がないから何も食べられなくて……痛覚がないから怪我にも気づかない。眠れないから、夜は長くて辛いよね……」
「シオン、気づいてたの……?」
「当たり前だよ。ティアは嘘が下手だから」
「でも、神曲聖歌はフェリシアさんにしか歌えないのでしょう? だったらわたし――」
「だから僕が、編曲して君が歌えるようにするんだ」
きっぱりとしたシオンの答えは、ルクレティアが考えたこともなかったようなもの。
「そんなこと、できるの?」
「わからない。でも、空の竜との約束なんだ。成功すれば僕の勝ち。君を元に戻す。負けたら……」
シオンがうなだれる。そのときはルクレティアが消える、ということか。本来ならばそれがあるべき形なのだから。
「シオンはどうして、そこまでしてくれるの?」
初めて会ったときから、シオンはルクレティアに優しい。どこまでも。
「計画に携わった人たちは、君のことをフェリシアが目覚めるまでの繋ぎの人格だと考えていた。でも、僕は君は記憶を失くしただけで、ティアだと思う。僕がよく知ってる、僕の幼馴染のルクレティア」
「う、うん?」
よくわからなくて、ルクレティアの頭の中は疑問符でいっぱいだ。首をひねると、シオンが苦笑した。
「レンハイムの長女にフェリシアって名付けるのは空の竜が定めたしきたりなんだけど。僕の幼馴染はそれを嫌がったんだ。初めて会ったときにフェリシアって呼んだら、凄い勢いで泣かれちゃって。だから別の名前を付けたんだよ。ルクレティアって」
ルクレティアの隣に座ったシオンは天井を見上げ、
「響きが綺麗ってだけで作った単語で特に意味はなかったから、名前の意味は二人で決めた。お互いに相棒みたいなものだったから、片翼ってね。名前は特別なものだから。空の竜が禁止したのも、名前を付けると術が失敗する可能性があると考えたんだと思う。僕らはしきたりを破った。竜の懸念通り儀式は中途半端に失敗して、君は記憶を失くしてしまったけど、魂までは壊されなかったんじゃないかな」
「でも、それならわたしが本当にシオンの知っている子かなんてわからないわ。名前は……大切なものだったから身体が憶えていたけど、別人かも」
ルクレティアという名以外に何も憶えていない自分が、シオンの言うように彼の幼馴染だとはとても思えない。
「君が目覚めてから最初に会った日のことを憶えているかい?」
忘れたことなんてない。頷くと、シオンは目を伏せた。
「僕はあのとき、君の『だれ?』って言葉が悲しかった。フェリシアに似たようなことを言われても、僕は何も感じなかった。ティアじゃなかったら、僕は傷つかなかったと思うんだ」
ルクレティアと初めて話した日の彼の悲しそうな顔は、よく憶えていた。
「それに表情とか仕草、話し方もそうだよ。変わってない。フェリシアの仮面を付けるときは大人びてたけど。普段は結構、子供っぽかったし」
悲しそうな顔から一転して、シオンは苦笑する。
「実際に目にするまでは見分けがつくか自信がなかったけど。会った今なら断言できるよ。フェリシアのことなら僕は一目でわかる」
「でも、憶えていないなら、やっぱりわたしは別人だわっ」
ルクレティアの反論に、シオンは首を傾げた。
「それなら。例えば僕がこの先何かの拍子に記憶を失ったとして。ティアにとって、僕は無関係な他人になる?」
「シオンはシオンよ」
言ってから、ルクレティアは目を見開く。シオンは柔らかく微笑んだ。
「僕にとってもそうだよ。ティアはティア。魂なんて目に見えるものじゃないし、正否は誰にも判断できない。僕にとって君が大事な人だってことは事実だよ。僕は僕のすべてを懸けて君を犠牲になんてさせないから。だから、信じて欲しい。それと……」
一度言葉を切ったシオンの顔が険しくなる。
「ティアの体は今は機械人形に近いけど。でも、僕が必ず元に戻してみせるから。だからもっと自分を大事にして欲しい。二度と消えても構わない、とか考えないで」
自分を大事にしろ。それはヴェルスーズに着いてすぐの頃にも言われたこと。あのときと今とでは、シオンの言葉の重みが違った。
帝国でずっと人に尽くせと教わったルクレティアだ。すぐに意識を変えるのは難しい。けれど、シオンがどれだけ悲しむか察しつつあったルクレティアは、善処したいと思った。
ルクレティアがおずおずと頷くと、シオンは微笑み、脱力して立ち上がった。
「真面目な話はこのくらいにしておこうか。さっき、宿の前でヴィンスに会ったんだ。エリアナが君と話したがってるんだけど、夕食に誘うのを迷って廊下を行ったり来たりしてるから何とかしてくれってさ。どうする?」
「わたしもお話ししたいっ!」
ロゼリアのことは心配だけれど、気落ちしていては何にもならない。それに、ルクレティアは彼女が目覚めてもまだ何を言っていいのかわからないのだ。新しい旅の仲間だというふたりに相談するのもいいかもしれない。
ロゼリアがどう思っていても、ルクレティアにとって彼女は初めてできた友達なのだ。ロゼリアのために何ができるかしっかり考えようと心に決め、ルクレティアは伸ばされたシオンの手を取った。
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