「いつわ、り……?」
偽り。それはつまり嘘ということ。
常識が覆るような大きな衝撃に困惑するルクレティアに頓着せず、ロゼリアは淡々と話を進めていく。
「そもそが、なぜスタンフォードの長子は器を完成させるなどという役目を負っていると思う?」
それは、ルクレティアも疑問に思っていたこと。
神曲聖歌は帝国と空の国に散りばめられていて。すべてを集めると願いが叶うと人々は信じている。
しかし、神曲聖歌を集めて完成させても歌えるのはフェリシアだけで、おまけに願いが叶うという伝説は偽りだという。
ではなぜ、帝国はフェリシアの覚醒を望んでいるのか。何のためにフェリシアという存在は必要なのか。
「神曲聖歌は、空の世界を創造するために創られた。そして役目を果たした聖歌は七神竜の魂に込められ眠りについたとされている。だが、この神話には続きがある。当事者である七神竜しか知らない真実が」
コツコツ、と靴音を響かせてロゼリアが窓へと近づいた。柔らかな朝日が差し込む窓ガラスにそっと手を添えた彼女は、眩しげに太陽を見上げて、言う。
「散りばめられた聖歌が再び一つになるとき、神曲聖歌はまったく新しい力を発揮する。そのための力を創造するために、空の竜以外の神竜は眠りについたんだ」
「新しい力……?」
振り返ったロゼリアは、強く言い放つ。
「新たな神曲聖歌は、オルラントからすべての幻妖種を消滅させる力を持っている」
「……それは、地上も、空も?」
ロゼリアは頷く。
「そうだ。そしてその聖歌を歌うことができるのは、フェリシアだけだ。七神竜がそう定めた。神曲聖歌が新たな力を得るためには、長い準備期間が必要になる。しかし、その頃にはフェリシアは生きてはいない。だから空の竜は彼女の魂を己の楽譜に封じ、眠りにつかせたんだ。そして創造の書を完成させる人間が現れるのを待った。レンハイムとスタンフォードの血は、そのために継がれてきたということだ」
「でも、だって、シオンは……」
そんなこと、一言も言わなかった。
彼は大切なものを取り戻すために神曲聖歌が必要だと言っていた。
――それが、シオンのついた嘘?
何を信じればいいのかわからなくて混乱するルクレティアに追い打ちをかけるように、ロゼリアは続ける。
「帝国はこの事実までは知らない。帝国に古くから課せられた役目――フェリシアを覚醒させるという空の竜の悲願を叶えることに躍起になっているだけだ。帝国は守り神である空の竜を崇拝しているからな。フェリシアの目覚めは帝国の未来に繋がると、漠然と信じていたのだろう。だが、加護を待つあの男は違う。ただひとり空の竜と意思疎通できる彼が、神曲聖歌の真実を知らないはずがない。事実を伏せ、偽りを刷り込んであなたを同行させているシオン・スタンフォードは、紛うことなき空の竜の手先だ」
ロゼリアがシオンを厭う理由に、ルクレティアはようやく気づく。魂の竜を憎むロゼリアにとっては、空の竜と繋がりがあるシオンもまた憎悪の対象なのだ。
憎しみの灯った瞳を一度伏せ、再びまぶたを持ち上げたロゼリアは、ルクレティアにまたも憐憫の眼差しを向ける。
「創造の書を歌えるのはレンハイムの長女だけ。そしてレンハイムの血は子を宿すことができないあなたの代で潰えることになる。私が言いたいことがわかるか、ルクレティア」
「あ……」
「この機を逃せば、幻妖種を滅ぼす手立てはなくなる。それはオルラントの滅びと同義。あなたの人格のままでは神曲聖歌を歌うことは無理だ。幻妖種を滅ぼすために。オルラントの未来のために、あなたは消えなくてはいけない。ここまで聞いてもなお、シオン・スタンフォードがあなたの存在を惜しむと思うか?」
「…………」
答えられずに項垂れるルクレティアに、ロゼリアは畳み掛けてくる。
「もしあなたが消えるのが本意ではないというのなら、あの男は率先して神曲聖歌を求めるようなことはしなかっただろう。あなたが信じるシオン・スタンフォードの優しさなど、まやかしだ。帝国の悲願を達成するために。生まれ持った役目を果たすために、あなたを利用している。これが、あの男の真実だ」
大きく息を吐いたロゼリアは、首を傾げる。
「この事実を知ってもまだ、あなたは私に同情する余裕があるのか?」
鋭く吐かれた問いかけに、困惑と混乱はたちまち悲しみに塗り替えられてしまう。
「ロゼリアは、わたしが可哀想だと思うからこんな話をするの……?」
「あなたが私に無駄な同情をするから現実を教えただけだ。哀れなのは私ではない、あなただろう?」
「わたしは……」
ルクレティアがロゼリアの力になりたいと告げたことは、彼女の矜持をひどく傷つけてしまったらしい。そのことを申し訳なく思いながらも、ルクレティアはどうしてもロゼリアの言葉を否定したい気持ちになってしまう。
シオンはルクレティアにこれ以上ないほどの親愛の情を注いでくれた。いつだって、慈しみを込めた眼差しを向けてくれていた。
ロゼリアはすべてを偽りだと言うけれど、ルクレティアはシオンから貰ったものを疑いたくなんてない。
重い沈黙が満ちる中で、ルクレティアは顔を上げた。反応を窺うように見下ろしてくる瞳に、きっぱりと言う。
「わたしは……消えてもいいわ。だって、わたしは人の役に立つために創られたんだもの」
この体は元はシオンの大切なフェリシアのもの。でも、今はルクレティアのもので、聖術で作り変えられた肉体は機械人形と遜色のないものだ。見た目が機械か人にそっくりか。その違いだけ。
帝国で、ルクレティアはずっと人の役に立てと教わってきた。
だから、ルクレティアが消えることでたくさんの人が幸せになるのならそれは本望だ。でも。
「でもシオンは、わたしに自分を大事にしてほしいって言ってた……。わたしは、その言葉も信じたいわ」
何が真実で、何が嘘なのか。ルクレティアには判断できない。だから。
「だから、わたしがどうなるかはシオンに訊くわ。直接シオンの口から聞くまでは、わたしは勝手にシオンを信じる。それだけよ」
ロゼリアは不愉快そうに眉をひそめる。
「私の話が偽りだとでも? あなたが認めたくなくとも事実は変わらない」
「ロゼリアのお話が嘘だなんて思わないわ。でもわたしは、シオンを信じたいの」
自分でも支離滅裂なことを言っているという自覚はあった。けれどこれがルクレティアの精一杯の答えなのだ。
「あの男にとってあなたは、消えるべき存在でしかないんだぞ?」
「シオンは、そんなこと言わなかったわ。自分を大事にしろって、そう言ってくれたもの」
ロゼリアが言うように、シオンはルクレティアを騙しているのかもしれない。彼の優しい言葉はすべて嘘なのかもしれない。
でも、そんなことルクレティアにはどうだっていいのだ。
あの日、ルクレティアはシオンの手を取った。そのときに決めたのだ。彼の役に立つために、ルクレティアは何だってすると。彼を支えて、どんなときでも彼を信じて、ついて行こうと。
向けられる失望の眼差しからルクレティアは逃げ出したかっただけかもしれない。でも、シオンの助けになりたいと願った想いは嘘なんかじゃない。
ルクレティアは人ではないけれど、この想いは彼女だけのものだ。だからシオンを勝手に信じたっていいはずなのだ。
オルラントのためにルクレティアという人格は消えなくてはいけないのかもしれない。
そのとき、シオンが悲しんでくれたら。ほんの少しでも、寂しいと感じてくれたら。それで、ルクレティアは満足だ。
だって、あの地下部屋に閉じこもったままなら、ルクレティアが消えても悲しんでくれる人はひとりとしていなかった。
悲しんでくれると、信じることすらできなかったから。
強気だった金緑の瞳が、ルクレティアの熱にたじろぐように揺らめいた。
「……そこまで言い切るのなら、シオン・スタンフォードを信じて創造の書を歌うことができるのか? 帝国があなたの人格を消したがっていたのなら楽譜を知っているはず。歌えば、答えは出る。私の話が事実だと証明されるはずだ」
自我を消すために皇帝に渡された楽譜だと、すぐにわかった。おそらく失敗した儀式をやり直そうとしたのだ。
歌ったら、本当にルクレティアという存在は消えてしまうのだろうか。
胸に満ちる重たい不安を読み取ったのだろうか。ロゼリアは不敵な笑みを浮かべる。
「消えても構わないのだろう? なら歌えるはずだ。シオン・スタンフォードがあなたという人格の喪失にどんな反応を示すかは、私が見届けよう。あなたはそれで充分なのではないか?」
皇帝が言ったようにもしルクレティアの人格が消えたとき、シオンが惜しんでくれたらルクレティアの勝ち。彼が喜ぶなら、ロゼリアの勝ち、ということだろう。
ここで怯めば、ルクレティアの吐いた言葉はロゼリアにとってすべてが嘘となる。何より、ロゼリアにシオンが軽蔑されてしまっているのが悲しい。
彼の優しさは嘘なんかじゃないと、証明したかった。
瑠璃の双眸と金緑の瞳が長らくかち合い――ルクレティアは、頷いた。
「……いいわ。でも、誤解しないで。シオンを信じているから、わたしは歌うのよ」
ルクレティアは、息を吸い込む。
心の奥底にずっとあった、小さな疑問に蓋をして。
ロゼリアの話で、一つ不思議に思ったことがあったのだ。
真っ白な意識のなかで、ただ一つ確かだったもの。
ルクレティアという名前は、一体どこで生まれたのだろう、と。
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