「なんだ……拍子抜けだな。”天上人”とやらがどんなもんか、お目にかかれると思ったが」
俺は呟いた。
乾いた風が山脈の岩肌を撫でていく。
俺の声は、その風に溶けるように掻き消えた。
ここは近麗地方にある”虚空島”だ。
その名の通り、虚空島は空に浮かぶ島だ。
魔法や妖術が存在するこの世界においても、常に浮いている島というのはさすがに珍しい。
ちょっとした観光気分で来た。
だが、実際にこの足で来てみれば、そこにあったのは無機質な静けさだった。
「浮島はどこかに行ってしまったが……。当然、山脈地帯はそのままだな」
虚空島という名には、二つの意味がある。
狭義では、この地域で空に浮かんでいる島そのもののことを指す。
それが物理的現象か、神秘的な力によるものかは諸説あるが、とにかく、空に浮いている。
そこには特別な血筋を持つ天上人が住んでいるらしい。
噂では、神の血を引くとも、神と契りを交わした末裔とも言われていた。
ただ、天上人が直接的に刀を振るうことはない。
彼らが持つのは、あくまで権威。
佐京藩の女王や愛智藩の将軍とは、また違った方向性の権威だ。
より抽象的で、神秘に寄り添ったもの。
天上人たちは神々に対して特別な干渉ができるらしく、それを用いて間接的に”下界”を支配している。
見えない支配ほど厄介なものはない。
非常に面倒くさい存在だ。
とはいえ、天上人たちは戦乱に参加する気配を見せていない。
あくまで高みの見物。
実質的にはやはり「女王派vs将軍派」が主題だ。
そして、広義では、浮島の下部に広がる山脈地帯も”虚空島”という地域に含まれる。
険しい山脈なので人口はかなり少なめだが、皆無というほどでもない。
山の民は政治にも宗教にも無関心で、ただ日々を生きることに集中していた。
彼らにとって天上人など、文字通り雲の上の存在だ。
触らぬ神に祟りなし……ぐらいの感覚を持っているのかもしれない。
「くっく……。俺の最大火魔法をぶっ放して、島ごと焼却処分してやりたかったのに」
言葉を吐きながら、俺の口角が自然と吊り上がる。
嗤うというより、乾いた愚弄の表情だ。
満ち足りぬ衝動が喉の奥で燻る。
俺は行き場のない持て余した火魔法を、適当に放つ。
込める意思も、目的もない。
あふれた熱をただ、捨てるだけだ。
炎は鋭く空気を裂き、目の前の一本の木に直撃する。
木は音を立てる間もなく発火し、轟々と燃え上がった。
まるで、何かが生きていたかのように燃える。
炭化する樹皮、破裂する枝。
熱で歪んだ空気の向こう、立ち上る煙の中に、かすかな甘い香ばしさが鼻先をくすぐった。
木の中に秘められていた命の匂いだろうか。
妙に落ち着いた匂いだった。
心を逆なでするような不快感もない。
ただ、そこにある火と灰の循環を受け入れるような、奇妙な安堵が胸を撫でた。
「天上人どもめ……どうやら、逃げ足だけは早いらしい」
俺がこの地に来ることを、察知していたのか。
それとも、ただの偶然か。
思考は火の揺らめきとともに浮かんでは消えた。
俺の力が読まれた可能性――その事実よりも、その逃げ方がどうにも腑に落ちない。
空は空のまま、島だけが消えた。
青い空は何事もなかったように静けさを保ち、あの巨大な浮遊島の残滓さえ見せてはいなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
俺は新たなる力を得た。
肌の奥から、いや、骨髄のさらに下、魂の輪郭をなぞるように流れ込んでくる重厚なエネルギー。
それは死牙藩で吸収した大量の闇によるものだ。
「ぐっ……!」
見た目は静かだが、内側では嵐が吹き荒れていた。
俺は無意識レベルの思考の枷がさらになくなったのだ。
世界を縛る法則や倫理、それらがいかに脆く、空疎なものであったかが、いまでは手に取るようにわかる。
理性の皮を一枚剥がすごとに、視界が広がる。
視野の奥に、かつては見えなかった色が現れる。
感じられなかった脈動が聴こえてくる。
「ふ、ふふふ……」
抑えきれず漏れた声は、笑いというにはあまりに切羽詰まっていた。
胸の奥が焼けるように疼く。
だがそれは恐れではなかった。
それは力が定着する痛み。
新たな器に新たな液体を注ぎ込むような、内側から容れ物を変形させるような圧迫だ。
ひりつく苦痛の中に、思わず酔いしれるような甘美さが混じっている。
「……おっと。ミッションが達成扱いになっているじゃないか。”虚空島”というのは、あくまで地上部分のことだったわけか」
唐突に現実に引き戻された。
俺はステータス画面を確認する。
指先の動きは慣れたもので、半ば無意識に空中をなぞる。
透明な板が空中に浮かび、任務の達成状況を告げる文字列が淡く光った。
冷たい光が俺の瞳に映り込む。
ミッション
近麗地方一帯を掌握し、支配しよう
報酬:スキルポイント20
確かに、それが達成扱いになっていた。
狭義における”虚空島”が上空からなくなった今、地上部分に住むのは政治や軍事とは無縁の山民たちぐらいだ。
彼らは抵抗する意志も手段も持たない。
ただそこに生きているだけの存在たち。
システム的に見て、俺が支配権を実質的に確立したと見なされたのだろう。
イメージで言えば……「桜花藩における桜花城=虚空島地域における虚空島本体」といったところか。
言わば、本来の支配者が可動式の城ごと逃げてしまったようなもの。
なら、攻める側の俺が実質的に城を落とし、この地域を支配したと見なされるのが自然だろう。
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