「ちぃっ! まさか、九龍地方の平定にこれほど手こずるとは……! 想定外じゃ!!」
地図の上で指を走らせるその小さな手に、彼女の怒気が込められていた。
ここは九龍地方の北部、佐京藩。
不朽丘藩と隣接している藩だ。
この地を治めるは、女王『ひみこ』。
年端もいかぬ――まだ十歳にも満たない――狐耳の可愛らしい少女のように見える。
だが、ひとたび口を開けば、言葉に重みがあり、目を合わせることすら憚られるような鋭い眼差しをもって、周囲を従わせた。
年齢も姿も、威厳の前にはただの衣を被った幻にすぎないのだ。
円卓を囲むようにして立ち並ぶのは、佐京藩の高官たち。
全員がひみこの言葉に神経を尖らせ、彼女の機嫌を損ねぬよう、慎重に口を開く。
「力士どもを懐柔しようとしたのは失敗でしたな。手心を加えたのが徒となったようです」
初老の参謀が、眉を顰めて言った。
語調は冷静だったが、その裏には自責と焦燥が見え隠れする。
ひみこの計画――否、藩を挙げての戦略が、予想外の抵抗により崩れかけている事実に、幹部たちの誰もが動揺を隠せなかった。
「しかも、何やら強力な治療妖術使いが頭角を現したとか」
別の武官が、顎に手を当てながら低く呟いた。
小さな情報も見逃さぬよう、彼らは各地の報告を血眼で読み解いている。
だが、どうにも手応えが薄い。
それほどまでに、九龍の情勢は読みづらくなっていた。
「愛智の成り上がり将軍を討ち倒し、大和を統一するのが我らの悲願。そのためには、九龍を平定して土台を盤石にせねばならぬ。それがどうだ、この現状は……」
張り詰めた空気の中、一人の老臣が苦々しげに語る。
彼の言葉には、藩としての歴史と誇り、そしてその裏に隠された焦燥と危機感が滲んでいた。
「不朽丘藩の粘りを見て、他の藩も翻意する可能性があります。魅夜裂(みやざき)の地に派遣している大使から、不穏な動きの報告が……。これはまずいですよ」
重ねられる報告に、場の空気はさらに重く沈む。
ひみこは唇をかみしめ、肩を震わせた。
その小さな体に宿る怒りは、まるで烈火のようだ。
「うぐぐ……! あいつらさえ……あの怪物集団さえいなければ! 今ごろは九龍を掌握し、愛智へ策謀と攻勢を仕掛けていたものを……!!」
思い出すのは、数か月前の出来事だった。
藩の領海に突如として現れた、異国の船。
当時のひみこは詳細を把握していなかったが、それはサザリアナ王国からやって来たタカシ一行だった。
特殊な結界妖術により、ひみこは彼らの行く先を把握した。
目指す先が『霧隠れの里』と判明すると、機を逃さず排除を命じた。
しかし、結果は必ずしも万全のものではなかった。
優秀なはずの忍者や巫女たちをもってしても、散り散りに転移させるのが限界だったのだ。
「……カゲロウやイノリを処罰しなかったのは、無駄に内部を動揺させぬため。侵入者を藩の外に追いやれば、それで済むと……そう考えたのじゃが」
小さく呟くひみこ。
その言葉は自分への言い訳でもあり、幹部たちへの苦い報告でもあった。
――いくら強いとはいっても、異国の地での個人行動では何もできない。
当時の彼女はそう判断し、タカシ一行への警戒を解いていたのだ。
誰もその判断を責めようとはしない。
だが、その甘さが今、牙となって返ってきている。
「連中め……! 大和中に散らばり、好き勝手に暴れておるようではないか……! おかげで、事前に集めていた情報が役に立たん! 情勢が目まぐるしく動きすぎておる……!!」
ひみこが声を荒らげる。
机上に並んだ報告書の山が、その言葉の重みを裏付けていた。
彼女の顔には皺が刻まれ、その目は疲労と苛立ちの色に濁っている。
ミリオンズの能力は、ひみこの想定を大きく超えていた。
まず単純に、それぞれの戦闘能力が想定よりも一回り以上高い。
そして、戦闘能力以外の分野でも各人がその能力を遺憾なく発揮している。
各自の高い能力を武器に、彼女たちは瞬く間に各地に影響を及ぼしていった。
その足跡は、まさに災厄のようだった。
漢闘地方の東都藩では、一人の武闘家の出現が歴史を塗り替えるほどの衝撃をもたらした。
彼女は凄まじい速度を伴った雷速武闘を操って道場を開き、そして同時に栄養抜群の料理を普及させていった。
武闘家たちの技術が向上するばかりか、肉体強度までもが増しているとの話だ。
中煌地方の不死川藩ではさらに異様な現象が起きていた。
上級の治療妖術に加え、強力な自己再生能力をも併せ持つ鳥人が確認されたのだ。
人々はそれを『不死鳥の再来』と呼び、かつて猛威を振るった『不死武士隊』が再び姿を現した。
彼女の出現により、藩内には畏怖と希望がないまぜになった熱気が渦巻いた。
かつての英雄譚が再び幕を上げたのだ。
その他、近麗地方の那由他藩や四神地方の紅炎藩でも、異変は起きていた。
その土地を守護する大和神が、一個人に肩入れして大きな力を貸し与えているらしい。
もはや、諜報によって収集された情報など、古びた紙切れにすぎなかった。
世界が、劇的に動き出している。
慎重かつ大胆な戦略変更が求められていた。
「奴らを甘く見ましたな……。よもや、異国人にこれほどの適応力があるとは……」
老将の一人が、口を噛みしめながら言った。
「……単純に連中の能力が適応力が高いこともあるが、転移妖術への抵抗力も関係しておるのじゃろう」
声の主はひみこ。
彼女の眼差しは揺るぎなく、真理の一端を見据えていた。
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