「……あなたたち、正気ですの? 佐京藩に歯向かうなんて」
女性の声が、薄闇に溶け込むように静かに響き渡った。
低く、しかし凛とした響きを持つその声は、まるで夜を切り裂く刃のようだった。
ここは九龍地方、魅夜裂(みやざき)藩。
風が緩やかに吹き抜ける山あいの集落だ。
今は夕暮れの帳が降り、あたりは淡い赤に染まっている。
この藩は、ヤマト連邦南部に位置する九龍地方の中でも、そのまた南側に位置している。
自然が豊かで人口は少なめ。
長い歴史の中でも戦乱に巻き込まれたことは少なく、平和を保ってきた。
しかし、平穏には脆い側面もある。
強大な佐京藩に隣接こそしていないものの、その影は既にこの地にも忍び寄っている。
じわじわと染み込むように、勢力圏に組み込まれつつあった。
「ふん……」
女性と対峙する武装集団の中から、一人の男が前へ出る。
歳は五十を越えているだろうか。
深い皺が刻まれた顔に、それでも消えることのない誇りが滲んでいた。
「正気に決まっておろう。我らは佐京藩に従うつもりなど毛頭なかった。面従腹背。ただ、好機を探っていただけだ」
その口調には確信があり、恐れは微塵も見えない。
彼らはもはや、ただの住人ではない。
己の信念のもとに立ち上がった者たちだ。
反乱というにはあまりに小さな火種。
だが、火種は風が吹けば容易に炎となる。
女性の目的は、この集団を鎮圧することだった。
「はぁ……。そんな世迷い言を……」
女性――千が、深くため息を吐く。
ひとつに結い上げた漆黒の髪が微かに揺れ、静けさの中に微妙な緊張感を落とす。
無言の空間に漂うのは、過去の記憶に纏わるほの暗い気配。
そこに、どこか寂しさと諦観の色も滲んでいる。
佐京藩の特務部隊。
その隊長を務める彼女は、ただの剣士でもなければ、冷徹な指揮官というだけでもない。
裏に生き、影に働き、いかなる策略も辞さない女だった。
サザリアナ王国やその周辺地域で活動した彼女の足跡には、常に混乱と陰謀がつきまとった
オーガやハーピィの里を混乱させ、古代遺跡の仕掛けを作動させる。
ドワーフの村の住民に隠れ潜んでいた”霧蛇竜ヘルザム”を討伐し、素材を手に入れる。
赤狼族の隠れ里と隣国との間にトラブルを発生させ、”紅蓮の水晶”を盗み出す。
採掘場を混乱させ、どさくさ紛れに”蒼穹の水晶”を入手する。
ソーマ騎士爵を瘴気で汚染し、行動を操る。
そして仕上げに、ラスターレイン伯爵領のアヴァロン迷宮に住むファイアードラゴンを手懐ける。
――これは暗躍のほんの一端だ。
彼女は他にも、細々した準備も含めて様々な策略を巡らせてきた。
成功したものもあれば、失敗したものもある。
しかし肝心の最終目標――ファイアードラゴンの件は、タカシたちミリオンズによって阻止された。
そして、とうとう捕縛されるに至ったのである。
だが、そこで終わりではなかった。
司法取引という形で、『ベアトリクス第三王女やソーマ騎士爵が率いる使節団をヤマト連邦に連れて行く』という密約が交わされ、彼女は釈放された。
形式的なものとはいえ、信頼を伴う任務。
それを彼女は無事に遂行し、使節団を目的地へと導いた。
そこまではいい。
問題は、千が突如として使節団から離脱し姿を消したことだ。
千は本来の所属先である佐京藩の地へと向かった。
その行動をギリギリで察知したソーマ騎士爵は単身で彼女を追跡するも、佐京藩の兵たちに捕縛される。
そして、女王ひみこによって懐柔が試みられ、しばらくは抵抗していたものの、特殊な術によってついには懐柔された。
一方のベアトリクス。
彼女はソーマ騎士爵の独断専行に気づくも、後を追うことはしなかった。
当初の予定通り、ヤマト連邦の女傑将軍“信菜”との接触を図っていた。
そんな感じの流れである。
「……なぜ自ら滅びを選ぶのか、理解できませんわ。佐京藩は平和的にあなたがたを受け入れるつもりですのに」
その言葉は、まるで遠く響く鐘の音のように、場の空気に染み入った。
物思いにふけっている場合ではない。
千はかつての記憶を断ち切るように首を振ると、目の前の男たちを真っ直ぐに見据えた。
対する男たちも、一歩も引いていない。
「我らは誇り高き魅夜裂の民! その矜持を捨てて生き残るつもりはないわ!!」
男の声は、怒りと誇りを振り絞った絶叫となって辺りにこだました。
声の中にあったのは威厳というにはあまりに生々しい、原始的なまでの存在証明だった。
彼らにとって誇りとは、過去の栄光でも、未来の夢でもない。
ただ「今」を生きるために必要な、剥き出しの魂だった。
「誇り……ですか」
「お前もそうだろう!? 生まれた地を! 親兄弟を! そして自分自身を! 全てを護り抜くために戦ってきたのだろう!?」
男の声は激しく揺れていた。
憤怒か、失意か、それとも――哀しみか。
声の端々に宿る微かな震えが、その感情の複雑さを語っていた。
抗いがたい運命に直面した者だけが知る、どうしようもない痛み。
沈黙が場を支配する。
千は何も答えなかった。
――男の主張に共感したから?
いや、違う。
逆だ。
彼女は――
「【黒蝕縄(こくしょくじょう)】」
その一言が大気を裂いた瞬間、世界が止まったかのような錯覚が広がる。
空気は急激に冷え、目には見えない漆黒の靄が辺りを包み込む。
闇が具現化したかのような黒い縄が、地の底から這い出るように出現し、男たちの周囲を取り巻いた。
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