ヤマト連邦、九龍地方。
その北部に『不朽丘藩(ふきゅうおかはん)』がある。
その丘は、不朽の名に恥じず今もなお雄大な姿を見せていた。
かつて神々が眠る地とまで呼ばれたその丘は、季節の移ろいを優しく抱きしめながら、風の囁きや草のざわめきすらも静謐な旋律へと変えていた。
春になれば薄紅の花々が斜面を染め、夏には蝉の声が空を割き、秋には金色の稲穂が風に揺れ、冬には静かに白銀が舞い降りる。
まるで時間さえも、この地では歩みを緩めているかのように思えた。
しかし今は……。
「どうして、人は争うのでしょう……」
風が緩やかに丘の草を撫でる中、少女の細い声が空に溶けていった。
その声音には、痛みと戸惑いが混じっている。
少女――サリエの瞳は、遠くに広がる戦場を見つめていた。
そこには、煙と血の匂いが混じり合い、怒号と悲鳴がこだましていた。
火に焦がされた地平が、かつての平穏をすべて焼き尽くしたかのように、色彩を失っている。
「知れたこと。戦国の世で守りに入れば、滅亡あるのみ。なればこそ、己が力で突き進むまでだ」
返したのは、背後に控えていた壮齢の男性だった。
その体躯は、まさに山の如し。
身に着けるまわしに、歴戦力士の風格が染み込んでいる。
彼の声音は低く、揺るぎない信念に満ちていた。
それは単なる指揮官の言葉ではなく、この地で何十年も藩を支え続けた男の重みだった。
「力……ですか。そんなもので、人が分かり合えるとは思えません」
サリエの声にはためらいがあった。
否定しきれない何かが、胸を締め付けていた。
彼女は戦いを否定したいわけではない。
けれど、血で染まった勝利の先に、本当に守るべきものがあるのか。それを問うていた。
「紗璃依(さりえ)よ……。お主は優しい娘だ。しかし、そんなお主の”治療妖術”もまた、力の一種。肝要なのは、使いようだ」
男は優しく笑みを浮かべた。
まるで、孫に語りかける祖父のように。
その言葉には戒めと慈しみが混ざっていた。
サリエの手は、小刻みに震えている。
人を癒す力を持ちながら、その力こそが戦の趨勢を決めるという皮肉に、彼女は耐えきれず目を伏せた。
「……私は……」
言葉はそこで途切れた。
幾度も唇が動くが、声にはならなかった。
もう数か月が経過するだろうか。
彼女はミティやアイリスと共にヤマト連邦に上陸した。
そして、転移妖術――佐京藩の『霧隠れの里』に潜んでいた忍たちの術によって、彼女たちは四方八方へと散り散りにされてしまったのだ。
サリエが飛ばされたのは、不朽丘藩――佐京藩のすぐ東に位置する場所だった。
あまりにも遠くに飛ばされるのは厄介だが、だからと言ってすぐ隣の藩に飛ばされるのも困りものである。
いつ追手によって襲われるか分からない。
進退に窮した彼女は、地元の有力士族に取り入り佐京藩の追っ手から守ってもらうことにした。
代償は、彼女が治療魔法の腕を振るうことである。
「――【エリアヒール】」
風の音に紛れるように、サリエが呟く。
その指先から淡い光が広がり、地に伏していた兵士たちの胸に命の息吹を吹き込んでいく。
その光は、まるで冬の終わりを告げる春風のようだった。
だがその奇跡は選ばれていた。
不朽丘藩の力士兵だけが蘇り、佐京藩の兵たちは眠ったまま。
傷が癒えた力士たちは、すぐに動き出す。
彼らは落ち着いた様子で佐京藩の兵を拘束していった。
捕虜にされた者たちは、まるで時の流れに逆らえぬ葉のように、静かに運ばれていく。
「お主の事情は詮索せぬ。だが、佐京藩の連中を討ち滅ぼしたいという目的は一致している」
男の目には、いかなる妥協もなかった。
その視線は鋼のようにまっすぐで、情に流されることなどなかった。
彼の言葉には、過去の怨嗟も未来の迷いもない。
ただ今、この瞬間を戦い抜くという決意だけが宿っていた。
「討ち滅ぼすなんて、そんな……。私はただ、追い返せればそれで……」
サリエの声はか細く、彼女自身の祈りのようでもあった。
声の震えは、胸の奥で交錯する葛藤の余波だった。
治療魔法使いとして、人が傷付く姿を見たくないという思いはある。
だがその願いは、この地ではあまりにも甘い。
彼女の理想は、まるで冬の霜に置かれた春の花のように脆く、触れるだけで崩れそうだった。
男はわずかに眉を動かした。
嘲りではない。
哀れみでもない。
ただ、彼女の未熟さに対する現実的な理解が、目元にわずかな影を落としたに過ぎなかった。
「追い返すだけ……か」
世は戦国時代。
隣同士の藩は、『まだお互いに攻め時を探っているだけ』という状態が常である。
手を繋いで仲良しこよしになれるような関係性があるのであれば、そもそも一つの藩として話し合いのみで合併していてもおかしくない。
そうなっていないという時点で、少なくとも潜在的な敵対関係であることは疑いようもなかった。
佐京藩と不朽丘藩も、例に漏れず敵対関係にある。
「まぁ、今はそれで良い。お主が来てくれたおかげで、不朽丘藩の寿命は伸びた」
静かな一言だった。
だが、壮齢の力士が発したその声には、戦場を幾度も越えてきた者にしか持ち得ない重みがあった。
曇り一つない目は真っ直ぐにサリエを見据え、その奥にある信頼と期待が彼女の胸を打つ。
ヤマト連邦には、四十を超える藩が割拠している。
その中でも、二つの藩が頭一つ抜けた存在として君臨していた。
ひとつは、女王『ひみこ』が率いる佐京藩。
もうひとつは、女傑将軍『信菜』の治める愛智藩。
二つの派閥は互いに牽制し合いながら、各地の小藩を取り込む形で勢力を拡大し続けていた。
すでに、九龍地方の過半は佐京藩に下りつつある。
その勢いに抗うのは容易なことではない。
そんな中でも、不朽丘藩は違った。
長年守り続けてきた伝統と誇りを盾に、一歩も引かぬ姿勢を貫いてきた。
どれほどの圧力にも屈せず、まさに最後の砦と呼ぶに相応しい気概がそこにはあった。
だが、藩全体としての力には無情にも大きな差がある。
佐京藩はついに軍を動かし、不朽丘藩を力でねじ伏せるための侵攻を開始した。
その圧倒的な兵力を前に、敗北はもはや時間の問題と誰もが考えていた。
……そんな絶望の中に、希望のようにサリエが現れた。
彼女は治療魔法のエキスパート。
不朽丘藩の力士たちにとって、まさに奇跡の使い手だった。
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