気がつくと、俺は布団に寝転んでいた。
ここは……天守閣の俺の寝室か。
外からは柔らかな日差しが差し込んでいる。
どうやら夜明けはとうに過ぎ、朝になったらしい。
「高志様、ご気分はいかがですか?」
顔を覗き込む紅葉の深緑の瞳は、露を含む若葉のように澄んでいた。
昨夜見え隠れした妖艶な狂気の影など、微塵もない。
「え……ああ、大丈夫だ」
胸の鼓動を確かめ、視線を流華と桔梗へ移す。
流華は窓辺でクナイを磨き、桔梗は静かに坐禅を組んで精神を澄ませている。
いつもの光景だ。
「兄貴、寝不足なのか? ぼーっとしてると屋台の行列が伸びるぞ!」
「……多忙な高志くんが頑張って捻り出した休日。楽しまないと損……」
「ははっ、そうだな」
軽口に苦笑しながらも、胸の奥で引っかかるものがある。
昨晩は“一線”を踏み越えてしまった気もするが――いや、荒唐無稽な夢だったのだろう。
俺は記憶喪失で脳が混乱気味だから、あんな夢を見てしまうんだ。
頭を振り、肺の奥まで朝の空気を吸い込む。
「ふふふ……」
紅葉は何やら満足そうに自分の腹を撫でている。
夜風で冷えたのか、それとも――などと考え始めたところで、流華が再び視線を向けてくる。
今日の約束、それは城下町への食べ歩きデート。
ないがしろにするわけにはいかない。
「城下町を散策しよう。行くぞ」
四人で肩を並べて桜花城を後にする。
石畳を踏むたび、微かな足音と行商の呼び声が溶け合い、軒先を彩る反物が春の風に翻った。
香木を削る乾いた音、吟遊詩人が奏でる擦弦の調べ、子どもたちのはしゃぎ声――城下のすべてが一枚の絵巻のように流れていく。
通りの突き当たり、赤提灯が揺れる店先に行列ができていた。
提灯には墨痕鮮やかに「蛸炎珠」と記され、鉄板の上では丸い生地が絶えず転がされている。
揚げ油に似たパチパチとした音の合間を縫うように、店主が粉末を振りかけた。
瞬間、淡い火花がふわりと立ち上がり、生地の表面に細やかな焦げ目が浮かぶ。
「へえ。見栄えも良いな」
「外は香ばしく中はとろり。私、前から食べてみたいと思っていました!」
紅葉が目を輝かせる。
流華がさっと指を立て、店主に元気よく四舟分を注文する。
「おっちゃん! 四つくれ!!」
「……唐辛子粉もちょうだい」
流華が手を上げて四舟を注文し、桔梗が静かに追い打ちする。
彼女は辛いのが好きらしい。
俺が財布を出そうとすると、三人が同時に制止してきた。
「ここは私たちに払わせてくださいな」
「兄貴はいつも奢ってくれるしな。たまには恩返しさせてくれ」
「……ただでさえ、多すぎる俸禄をもらってる。こういうときに使わないと……」
「そうか? じゃあ、お言葉に甘えよう」
俺は苦笑しつつ礼を言い、一舟を受け取る。
鉄板から直行したばかりの炎珠は、竹舟に敷かれた薄紙を通しても熱が伝わってくる。
「いただきます!」
竹串を刺すと、焦げ目の膜がふわりと破れ、とろける餡と海の香りのするタコ足が顔を覗かせる。
舌に乗せた途端、熱と旨味が一気に広がった。
「……熱い、けどうまい!」
反射で息を吹きつつ感想を漏らすと、紅葉が嬉しそうに目を細める。
流華は「兄貴は猫舌だったのか!」と豪快に笑い、桔梗は赤唐辛子をさらに振って涼しい顔で二串目を平らげていた。
焼けた餡が落ちぬよう慎重に串を動かしながら、紅葉が袖をそっと摘む。
「蛸炎珠の後は、ひんやり甘いものが欲しくなりますね。蜜氷などはいかがでしょう?」
蜜氷――つまりはカキ氷だ。
桜花藩は『天下の台所』と呼ばれる物流の中心だけあって、様々な文化や料理が流入している。
食べ歩きデートにはもってこいの城下町だ。
「いいな。俺は柚子蜜がいい」
「兄貴、俺はきな粉にする!」
「……私は抹茶で」
歩調を合わせ、雑踏を抜けて甘味処へ向かう。
その途中で、小さな広場に差しかかった。
紅葉が立ち止まり、ぱちんと指を鳴らした。
「高志様、ここで記念に一枚撮りませんか? 例の特殊妖具で」
彼女が言っている”特殊妖具”とは、映像を紙に写し出す道具のこと。
カメラのようなものだな。
厳密に言えば魔導具であり、俺のアイテムボックスに入っていたものだ。
これまでにも何度か記念写真を撮ってきている。
「お、いいね! 兄貴は真ん中な!」
流華に背を押され、桔梗がそっと視線を合わせてくる。
もちろん、俺に拒否する理由はない。
「準備よし」
カメラを石畳に据え、遠隔操作でシャッターの魔石を起動する。
瞬きほどの閃光が走り、四人の姿を一枚の写真に閉じ込めた。
その瞬間、胸の奥に温かな何かが満ちる。
もしこのまま記憶が戻らなかったとしても、今こうして笑い合えるなら十分だ――そう思えた。
「……ん?」
甘味処へ向かおうと歩き出したとき、背筋を冷たい風が撫でた。
通りの外れ、古い路地の入り口。
陽射しの届かぬ暗がりに、小さな影が立っている気がした。
「……高志様?」
紅葉が小さく首を傾げる。
俺は肩を竦め、笑みを作った。
「いや、何でもない」
振り返ったときには、影はすでに消えていた。
通りには熱いソースの匂いと人々の笑い声だけが残り、路地の暗がりは昼下がりの光に溶けている。
胸の奥で、先ほど鎮めたはずの不安が小さく軋んだ。
「……さあ、蜜氷が俺たちを待っている。早く行こうぜ」
紅葉たちに笑顔を向け、石畳を踏み出す。
その背後で、誰かの足音が一拍遅れて響いた気がした。
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