「ふふ……。侍も忍者も、近接戦における我ら『力士』の前では赤子同然。そこにお主の治療妖術が加われば、我が藩は万の軍勢を得たようなものよ。佐京藩の奴らも、今頃慌てふためいているであろう」
壮齢力士の声は、どこか愉快そうだった。
勝機の糸口を掴んだ者の笑み。
対照的に、サリエの表情は浮かない。
本当は、一刻も早くミリオンズの仲間たちと合流したかった。
だが、それはあまりにも危険だ。
ここから動けばすぐにでも佐京藩の追手――特に忍者部隊が牙を剥いてくるだろう。
迂闊に一歩を踏み出せば、命取りになる。
彼女は戦いを得意としない。
治療魔法には絶対の自信があるが、斬り結ぶ覚悟を持っているわけではない。
気配を察知する術も、闇に紛れて動く術も持たぬ。
つまり、単独でこの地を離れることは不可能なのだ。
「本当に……このままでいいのでしょうか? 軍務については詳しくありませんが、佐京藩の勢力は凄まじいと聞きますが……」
不安を押し殺すように、彼女は尋ねた。
まるで冷たい霧の中を手探りで進むような声だった。
「お主の懸念も一理ある。現実は厳しい。仮に全戦力を向けられれば……お主の治療妖術をもってしても戦線を維持することはできまい」
壮齢力士の声は、低く穏やかだった。
だがその声音の裏に隠された冷徹な現実は、言葉以上の重みを帯びていた。
まるで何年も前から覚悟していたかのように、揺るぎがない。
その穏やかさが、逆にサリエの心を強く締めつける。
「そんな……」
気づかぬうちに唇から零れていた小さな声。
拒絶ではない。
諦念でもない。
ただ、抗いようのない現実に対する、無力な吐息だった。
力士の目元がゆるりと細まる。
無言の慰めが、その仕草に宿っていた。
サリエの不安を全て受け止めるような、祖父のような温かさすら感じられた。
「だが、奴らには敵も多い。愛智藩の密偵はここよりも佐京藩に対して多く放たれているであろう。兵力の配置に隙があれば、何らかの搦め手が仕掛けられる」
壮齢力士が言う。
希望的観測だが、一応の筋は通っている。
佐京藩の最終目標はヤマト連邦の掌握であり、不朽丘藩のみを意識した兵法は命取りとなる。
「ついでに言えば、第三勢力として『桜花藩』の力も強まっていると聞く。各地を守護する神々も、何やら荒ぶっており予測できない状況だ。安易に全戦力をこちらに向けることはなかろう」
情報を淡々と述べるその姿は、長年の修羅場を潜ってきた者だけが持つ説得力をまとっていた。
まるで冷静な戦略図を広げるかのように、感情を排しつつ、未来を睨む。
その視線は鋭く、だがどこか希望の光を帯びていた。
「桜花藩……。名前だけは聞いたことがあります。第三勢力が勢力を伸ばすことは、この藩にとって良くない知らせなのでは?」
思わず口をついたサリエの疑問は、予想以上に鋭い響きを帯びていた。
彼女の内に芽生えた懸念は、決して無視できるものではなかった。
「うむ……。しかし、ものは考えようだ。口惜しくも、不朽丘の藩力は不足している。正攻法では戦国の世を生き抜ことは難しい。大和連邦の全体が混乱すれば、我らにも付け入る隙はあろう」
淡い諦めと同時に、わずかな希望が混ざったその言葉は、戦の知略だけでは語れぬ領域に踏み込んでいた。
混沌こそが機会。
秩序の崩壊の中にしか、弱者の勝機は生まれない。
それは理屈ではなく、長年この国を見てきた者の直感だった。
「確かに……混乱が広がれば……」
小さく呟いたサリエの声は、自身を納得させようとする思考の道筋のようでもあり、同時に未来を想像するための呪文のようでもあった。
力士はその反応に応じるように、さらに口角を上げた。
眼差しに、わずかな茶目っ気が浮かぶ。
「このまま佐京と愛智と桜花が三つ巴で潰し合って、ついでに四神地方や重郷地方もなんやかんやで全滅すれば、我らにも天下統一の可能性がわずかばかり生じるやもしれぬ……」
言葉の端に込められた皮肉と願望が、重くも滑稽な現実を物語っていた。
だが、そこにあったのは絶望ではない。
愚直なまでに諦めず、何があろうとも勝機を探ろうとする意志の強さだった。
「そこまでやって『わずか』なんですか!?」
思わずサリエが声を上げた。
ほんの少し、感情がにじんでいた。
だがそのやり取りには、先ほどまでとは異なる空気が漂い始めていた。
冗談のような皮肉の中に、ほんのひとしずくの笑いが混ざる。
緊張の糸が、わずかに緩んだ瞬間だった。
「うむ。しかし、くよくよしても始まらぬ。今は佐京藩を牽制しつつ、何とか独立を保つことが肝要だ」
力士の言葉は、確信というよりも願掛けに近い響きを帯びていた。
それでも、次に何をすべきかを見据える視線には、一切の迷いがなかった。
「はぁ……」
サリエはため息をつく。
乾いた吐息が、部屋の空気に溶けていった。
彼女はまだ、この地から下手に動けそうにない――。
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