「紅葉……! 流華! 桔梗! よくぞ……よくぞ目を覚ましてくれた」
言葉が、意識するより先に口をついて漏れ出た。
冷たく凍りついていた感情が、春の陽に触れて少しずつ融けてゆく。
そんなぬくもりが、全身に広がっていくのを感じた。
紅葉、流華、桔梗――。
三人の名前を繰り返し口にするたび、どれほど彼女たちの目覚めを待ち望んでいたのかを思い知らされる。
彼女たちが昏睡状態になって一週間以上。
永遠にも等しい時間だった。
今、目の前で彼女たちは、確かにまぶたを持ち上げ、こちらを見ている。
かすかに笑みを浮かべてさえいる。
その事実が、どれほどの奇跡か。
全身から力が抜けて、膝が崩れそうになる。
「良かった……。本当に良かった……。すまない、俺が不甲斐ないばかりに……」
感極まって声が震える。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
彼女たちの無事。
それだけが、自分にとって何よりの救いだった。
情けない姿かもしれない。
だが、それも仕方のないことだろう。
記憶喪失の俺にとって、彼女たち三人こそが最も付き合いの長い仲間たちなのだから。
「ふふふ……」
「へへ……」
「……くくっ……」
三人が揃って微笑む。
それは確かに微笑だったが、なぜだろう。
どこか、底知れぬ黒い影が混じっているような気がしてならなかった。
……無理もないか。
三人は昏睡から覚めたばかりだ。
まだ意識が混濁していても不思議ではない。
「大丈夫か? 念のため聞くが、俺のことが分かるよな?」
思わず滲んだ焦燥が、声の震えとして漏れた。
自分でも気づかぬうちに、呼吸が浅くなっていた。
紅葉の瞳がこちらを見つめ返す。
そこには怯えも混乱もない。
ただ、ほんの少しだけ不思議そうに首を傾げてから、柔らかく口元を綻ばせた。
「もちろん分かりますよ。高志様」
その一言が、胸の奥にじんわりと染み渡る。
肩から力が抜けるのがわかった。
ぬるま湯のような安堵が背骨を伝って流れていく。
良かった。
記憶は残っている。
少なくとも、俺という存在が、彼女たちの世界から消えてしまったわけではない。
本当に良かった。
俺のことを――
「それでは、さっそく子作りしましょう!」
「え?」
耳が、勝手に言葉を拒絶するように跳ねた。
脳内では言葉の意味が確かに解析されているというのに、それが紅葉の口から発せられたという現実を、どうしても受け止めきれなかった。
紅葉はそんな子じゃなかった。
いや、少なくとも、俺の知っている彼女は。
「駄目ですか?」
ぽつりと落ちた言葉が、妙に澄んでいて、それがまた現実味を削っていく。
潤んだ瞳でこちらを仰ぐ紅葉。
その視線には真剣はあるが、怯えはない。
まるで、俺が拒否しようとしまいと、何も問題ないという雰囲気だ。
「いや、駄目というわけではないが……」
言葉を選ぼうとした矢先。
紅葉は一歩、いや、半歩分、俺に近づいてきた。
香るような距離感。
彼女の気配が肌に触れそうで、咄嗟に息を止める。
「高志様は私のことが嫌いですか?」
静かな声だった。
だが、その一言には、刺すような鋭さがあった。
たった一歩分の距離が、まるで断崖のように深く広く感じられる。
「……そんなことはない」
それは偽りのない本心だった。
彼女を嫌っているわけがない。
むしろ、大切に思っている。
だけど、それは……家族に向けるような、あるいはそれ以上に特別で、それでいて触れてはいけないもののような感情で。
「では、子作りしますよね?」
「…………」
俺は口ごもった。
俺のストライクゾーンが広いのは自認している。
熟女から、幼女寄りの少女まで。
とにかく範囲は広い。
だが、紅葉は別だ。
彼女との付き合いは長く、どこか家族のような感情も混ざっている。
そんな彼女に、突然あんなことを言われて、即座に応えられるほど俺は鈍感でも図太くもない。
「さぁ、早く!!」
声の調子が明らかに変わっていた。
いつもの穏やかさや柔らかさは消え失せ、鋭利な刃物のように耳を裂く緊迫感が宿っていた。
焦燥か、怒気か。
あるいはそのどちらでもない、もっと深く暗い感情――狂気にも似たものが滲んでいる気がした。
「…………」
沈黙。
それだけが唯一、俺に許された応答だった。
その沈黙の中で、胸の内に渦巻く苛立ちと困惑が次第に形を持ち始める。
そして、気づく。
紅葉の顔つきが、微かに、しかし確かに変化している。
いや、紅葉だけではない。
流華と桔梗も同様だ。
単なる錯覚ではない。
三人の気配そのものが以前とは異なっている。
もはや人ではない、何か別のもののようだ。
悪魔めいている――と言えば大袈裟だろうか。
だが、その言葉以外に近い表現が見つからない。
重く垂れ込める空気、見えない何かが圧をもってこちらへじわじわと迫ってくるようだった。
「沈黙は同意と見なします。さっそく始めましょう……と言いたいところですが、土壇場で抵抗されると面倒ですね」
その声は冷静で、まるで業務を遂行する機械のように淡々としていた。
だが、言葉の一音一音に、どうしようもなく滲み出る熱狂があった。
狂気に突き動かされるような熱、それが抑えきれず、冷静さという仮面の隙間からじわじわと漏れ出している。
まるで、今この瞬間を待ち望んでいたかのように。
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