その日は彼女の仕事が休みだった。
なので僕の仕事終わりに合わせて会うことになった。
いつものように、いつもと同じガストに行って、いつもと同じように食事を摂った。
そしていつも通り彼女の車で帰り、別れ際になった。
もう僕たちが会えるのは残り数日になっていた。
その日の彼女はうっすらと化粧をしていた。どこかに出かけたのだろうか。
「今日どっか行ったの?」
「うん、留学の最終手続きに」
僕たちは体を寄せ合い、顔を近付けておでこをくっつけた。
僕は片手を彼女の輪郭に添えて顔を包み込んだ。
「いつ発つの?」
「ギリギリに。9月入ってから」
吐息のかかる距離、微かな声だけで会話した。
明確な日付は教えたがっていないの様子だった。
空港までついてこられたらいやなのだろう。
鼻と鼻をくっつける。
「いつまで会える?」
「8月の最後の週まで」
唇が僅かに触れあう。
そして僕は堪らず彼女の唇に自分の唇をつけた。
唇で唇を求め合う。
次第に舌を絡ませ、今度は舌で求めあう。
いつも通りの、僕たちのキスの仕方。
鼻に彼女のあの香りが強く入ってきた。そして唇には彼女の唇の、舌には彼女の舌の感覚。
僕は愛しさの窮地へ追いやられ、堪らなくなった。
僕は思わず、こらえきれなくて彼女の胸に手をやった。
彼女は抵抗しなかった。
初めて触る彼女の胸の感覚に、僕の中の何かが触れて、切れた。
僕は身を乗り出し、彼女に覆いかぶさるようにして激しくキスをした。
すると彼女は息継ぎをするように唇を少し離し、
「達樹くん・・・」
と、吐息で僕の名を呼んだ。少し息が荒かった。
「うん?」
「時間、ある?」
時間など作るつもりだった。
「あるよ」
そう言うと僕は我慢できずまた彼女の唇を求めた。
暫くそうすると、彼女はまた少しだけ唇を離した。
「ホテル、行こう?」
荒い呼吸で彼女がまた吐息で言う。
僕は脳天に何かが届いたような感覚を得た。
改めて彼女にキスすると、顔を離して座席に座りなおしながら僕は、
「僕もそう思ってた」
と言った。
彼女はそれを聞くと気を取り直すような顔をして、ギアを入れなおし、車を発進させた。
彼女を抱ける・・・。
僕は嬉しかった。
彼女がそう言わなくても、僕が同じ台詞を言っていただろう。
「どこでもいい?」
「どこでも構わないよ」
車はやがて246に乗った。
するとすぐにそれらしき建物があり、彼女はそこを目指し、道を左にそれた。
彼女に最後に会ったのは、8月最後の平日だった。
僕たちはあの日以来会うたびにホテルに行き、お互いを求め合っては体を重ねた。
その日もガストで食事を食べ、彼女の運転でホテルへ行ったあと、僕の家まで送ってもらった。
別れ際、車内で軽くキスをしたあとに、彼女は元気そうに言った。
「いってらっしゃいって、言って」
ああ、これが最後なのだな・・・、と僕は察した。
なんともいえない気持ちになった。
信じたくない気持ちと、けりをつけなければ、という気持ちが混じっていたと思う。
僕も覚悟はしていたつもりだった。
僕は助手席からまっすぐ彼女を見つめた。
「気をつけてね」
「うん」
彼女は大きく頷いた。
僕はそんな彼女を見て、また愛しいという気持ちが溢れ出した。
「勉強も頑張って」
「うん」
彼女は気丈にしていたが、目には涙が溜まっていた。
「元気でね」
「うん」
僕も泣きそうになったが堪えた。
「・・・いってらっしゃい」
「いってきます・・・!」
彼女の元気そうないってきますを聞き終えると、僕は一気に車を降りた。
腕に力が入らなかった。
それでもなんとか懇親の力で車のドアを閉めた。
弱々しく閉まった車の窓から中を覗き込むと、彼女はこちらを見たまま口を真一文字に閉じ、大きな目から涙を流していた。
彼女が泣くのを見たのは初めてだった。
可愛く泣くんだな・・・。
そう思い、抱きしめたいという衝動に駆られたが、愛しい気持ちを無理矢理ねじ伏せて、僕は踵を返した。
マンションのエントランスに入ったとき、後ろで車が去る音がしたので振り向くと、もうそこに車も彼女も居なかった。
取り残された僕は呆然とした。
もう、彼女には会えない。
そんな事実、まだ受け入れられなかった。
空っぽになった頭の中で、もう会えないんだ、という言葉だけがくるくる廻っていた。
僕はぼんやりとエレベーターに乗り、自宅の鍵を開けて中に入ると、自分の部屋へと向かった。
電気をつけて、部屋を見渡すと、適度に散らかった狭い部屋が一望できた。
そんな中、ベッドの脇のあの香水がふと目に入った。
僕は何も考えず、それを手に取り、部屋に一吹きした。
たちまち部屋は彼女の香りで満たされた。
・・・愛しい。
僕はその中で、もうこの香りを彼女から嗅ぐことは出来ないと感じると、急に寂しくなり、涙が溢れた。
もう会えない、そう思うたびに泣けた。
僕はベッドに顔だけ突っ伏して、声を殺して泣いた。
それが、彼女と会った最後の日だった。
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