リィケは生まれてすぐに生身の身体を失い、物心ついた時には人形に魂を宿した『生ける傀儡』として存在してきた。
人形の身体に入っている神経で、普段から機能しているのは『視覚』『聴覚』くらいであり、痛みや温度を感じる『触覚』は訓練で魔力を通した時にしか感じない。
だが最近、分かったことがある。
リィケは自分と同じ【サウザンドセンス】には、その『触覚』が働くということだ。
今までリィケが触れて『感触』と『温度』があったのは三人。
王女であり【聖職者連盟】本部長の『ミルズナ』
レイラの顔を持つ【魔王マルコシアス】と行動を共にしていた、精霊使いの『ルーイ』
同じくルーイの仲間であった謎の少年『ロアン』
三人とも、身分や服装は別として“人間”であった。
だからリィケは【サウザンドセンス】は人間の中にしかいないと思っている。
しかし、これはリィケだけではなく、広く一般の人間もそう思っていることだった。
れ……冷静に!! 冷静に冷静に冷静に冷静にっ!!
森の中を走るリィケは、自分に念じるようにして全力で脚を動かす。
――――朝、目覚めたら違う場所にいた。
――――しかも『何か』に追い掛けられ…………
「……『痛っ』!?」
後ろから掴まれた腕に、痺れるような『痛み』が走る。普段から視覚と聴覚しか働いていない神経は、突然襲う『痛み』を強烈に身体中に伝えた。
「……っうわぁあああ!!」
思い切り腕を振りほどき、身体を反転させて地面にしりもちを、かなりの勢いをつけてつく。
もちろん、倒れた衝撃に『痛み』は無い。
「何……今の……」
まさか……この人も【サウザンドセンス】じゃ……
リィケが掴まれていた腕を擦りながら、目の前の『この人』を振り仰ぐと、再び恐怖が込み上げ全身が硬直した。
「……ギ……ギギ…………」
「――――っっっ!?」
先ほどリィケを後ろから追い掛けてきたモノが、目の前でリィケを覗き込んでいたからだ。
に……人間!? 人間なの!?
すぐ近くに金属でできた、お面のような顔が見える。
両目は黒く丸い穴で鼻は無く、口は可動式なのか、四角い穴に蓋のように薄い板があてがわれていた。
見えているのは、その顔だけ。あとは全身がボロボロの布を被っていて、体型などはわからなかった。
「ギギ…………ギィ…………」
「う、あぁ…………」
ギギギ……と、ボロ布の間からは錆びた金属音が聞こえてくるばかりで、生物らしい気配は伝わってこない。
おそらく、この『ボロボロのヒト』は生身の人間ではない。金属でできた『人形』だということ。
普通はそれが動くなら…………人形に悪霊が憑いた悪魔……『魔操人形』だ!!
「あ…………悪魔っ……!?」
「ギ…………」
リィケが思わず発した言葉に、ボロボロのヒトは体をビクリとさせて停止する。
その一瞬の隙をリィケは見逃さない、すぐに立ち上がり、再び光が強く射し込む方へ全力で走り出す。
悪魔なら逃げなきゃっ!!
今のリィケは寝間着姿であり、もちろん武器など持っていない。だが、相手の力量も計れないのに、素手で戦うにはリスクが大きすぎる。
――――――ガサッ!!
目の前の枝葉を払って一気に森を抜けた。
「何……これ?」
開けた視界とその光景にリィケは固まる。
リィケの左手側には朝陽を背後にした王宮と、城下町が広がっているのが見えた。
しかし、そこまでの距離がおかしい。
王宮はリィケのいる崖の下、そこから森が広がり平地が有り、街道が見えるのだ。
どう見ても、ここが徒歩で来られる場所ではないと、子供のリィケでも確信してしまう。
「こんな場所…………どうやって…………あっ!?」
ガシャガシャガシャ……!!
後方からまた金属の音が聞こえてくる。
目の前には切り立った崖。
しかし、場所は確かに崖の上だったのだが、行き止まりではなく道が続いていた。王宮とは反対側、右手側が岩山のように坂道になっている。
リィケの逃げ道はその坂道しかないようだ。
「うわっ…………!!」
「ギギ……ギギギ……!!」
耳障りな金属音が響いたが、後ろなど振り向く暇もなく坂を駆け上がる。
リィケが走る途中、
ずぼっ!!
「えっ!?」
何か、薄い紙に突っ込んで破ったような、抵抗感と振動があり、前につんのめりそうになって立ち止まった。
「…………何…………え?」
リィケは一瞬、逃げるのを忘れて立ち尽くす。
これが現実だというには、あまりにも実感のないモノがそこには存在していた。
――――現在、朝の七時。
聖リルディナ王都。【聖職者連盟】本部。
ルーシャは連盟が運営している、施設内の食堂で朝食を摂っていた。
ここは、夜間に懺悔を聞く告悔室当番の夜勤明けの神父や、早朝訓練などをしている退治員のために、朝早くから営業していて値段もお手頃の食堂である。
そのせいか、ここは連盟職員だけでなく、近所の住民も広く利用しているという。
ルーシャはリィケが起きる前に、独りで食事を済ませようと思っていた。
しかし、同じ席にルーシャと一緒に食事をしている人物がいる。
その人物はルーシャが食べている、野菜を挟んだだけの簡単なパンをしげしげと眺めてため息をついた。
「……ルーシアルドは意外に食が細いのですね。朝はそれだけで大丈夫ですか?」
「えぇ……まぁ。いつもはそんなに摂っていないので……」
「まぁ、退治員がそれでは良くありません! 明日から滞在中は、私と朝食を一緒にしましょう。それなら、リィケも連れて来られますもの!」
「あ、いえ、でも……ミルズナ王女のお立場で、そういうわけには……」
ルーシャの向かい側には一国の王女様が座っている。
しかもミルズナは何も気にしないように、食堂のメニューからパンケーキのプレートを選び、普通に食事を摂っている。
ルーシャは顔をひきつらせながら、食事を共にする申し出をやんわりと断ろうとした。しかし、ミルズナはにっこりと微笑んで『いいから、いいから』と言うように手をパタパタと上下する。
「ちゃんと人払いいたしますし、私は問題ありません。ね? 大丈夫ですよね、ライズ!」
「はい、ミルズナ様…………」
「……………………」
き…………気まずい…………。
気まずいのはミルズナに対してではない。
ミルズナの隣、小一時間ほど前に別れたばかりの義弟のライズが、しっかりと司教の服装に着替えて無表情で座っていた。
ルーシャはライズと別れた後、軽く連盟敷地内を散歩しながら食堂へ向かって歩いていたところを、護衛を数名連れだったミルズナに出会したのだ。
ルーシャが捕まるのと同時に、ライズがミルズナと合流したのだが、ルーシャと目が合うと眉間に深いシワを寄せて、それからルーシャの方を見なくなった。
今はルーシャ、ライズ、ミルズナの三人が同じテーブルに着き、他の護衛が少し離れた席に座って食事をしている状態だ。
「あの……王女は何故、一般人が利用する食堂へ……?」
「ふふ、珍しいかしら? ここは皆さんの顔も見えますし、週一度くらい来るのです。それに、王宮ではなかなか食べられないメニューもあって楽しくてね。完全に私の趣味です」
「はぁ…………」
確かに、頻繁に来ているのだろう。
ルーシャが辺りをそれとなく見回すと、連盟の職員やその他の人間がチラチラとこちらを見てはいるが、王女が居ても特に慌てた様子もない。
また来ているのか……と、いうような様子の者さえ見掛けるのだ。
「私は王女である前に、この連盟本部の職員の一人として働きたい。連盟にはすべての分野から、毎日様々な問題が舞い込んできます。それに目を通し解決策を経験していくことも、将来の私には必要な事と考えています」
「……それは、将来の『女王陛下』としてですか?」
ルーシャの言ったことに、ミルズナは少し目を丸くしたが、すぐにふんわりと柔らかい笑みを浮かべる。
「『陛下』に限らず、王族も貴族もこの国の問題には、必ず目を通しておくべきだと思ったからです」
そこまで言って、ミルズナは辺りを見回した。口に人差し指を当てて、ルーシャに小声で囁く。
「…………表向きは、ね。私は『陛下』ではなく『陛下を補佐する役目』になりたいのです」
「え?」
「理由は後でお話し致します。リィケの事と同じくらい重要なものですので……」
「…………はい」
笑顔であるはずなのに、ミルズナの表情がどことなく険しく見えて、ルーシャはほんの少しだけ気圧されてしまう。
「…………さて! 朝食を食べ終えたら、部屋までリィケを起こしに行かなくてはね!」
「へ!?」
「ふふふ~、きっと急にリィケに触ったら、びっくりして飛び起きますよ~」
「…………え~と…………」
チラリ。
ルーシャは楽しそうに笑っているミルズナから、抗議の意味も込めて横にいるライズに視線をずらす。
さっきからライズは、薄目で明後日の方向を向いていた。しかし、ルーシャの視線に気付いたのか、一瞬だけ眉をしかめてミルズナに話し掛ける。
「ミルズナ様……起こしに行くのは構いませんが、今日だけになさってくださいね?」
「えぇ、もちろん。一度だけにいたします。朝食を終えたら向かいましょう!」
ミルズナの言葉を確認すると、ライズはチラリ……とルーシャの方に少しだけ顔を傾ける。まるで「これでいいんだろ? 今日だけだから我慢しろ!」と言わんばかりだった。
「………………はぁ……」
ミルズナ王女のことは嫌いではない。むしろ、リィケを可愛がってくれるし、若いのになかなか人格もしっかりしている。
――――そう、ルーシャは思ってはいるが、こうして間近で彼女と接していると、ある人物が頭の中をかすめる。
…………この王女様、退治や聖職よりも研究者に見えるんだよなぁ。まるでリーヨォみたいな……。
『眼鏡』という共通点しかないのに、ボサボサの頭で不精ひげの顔がミルズナの笑顔に重なった気がした。
――――同時刻。
線路を走る汽車は、朝の空気を切るよう目的地へ近付いていく。
「……そろそろ王都に着きますよ。降りる用意をした方がいいのではないですか?」
カチャン……
二両あるうちの前の車両、一等客車の一室でラナロアは飲み終えた紅茶のカップを静かに置いた。
「寝過ぎで眠い…………」
細長いテーブルを挟んで、ラナロアの向かい側のソファには、ある人物が頭から毛布を被りサナギのように転がっている。
「眠れたみたいで良かったですねぇ、リーヨォ。いつものように目の下にクマができているのでは、あちらの方々に失礼ですから」
「……別に。俺の顔なんてクマが有ろうが無かろうが、あいつらはまともに見てやしねぇよ」
「ですが、寝癖と身なりはきちんとしてください。あちらも、久し振りにあなたが来るのを楽しみにしていると思いますよ」
「どーだかな。会うといつも可愛くねぇ憎まれ口ばっかいうぞ。あの『王女様』は……もうちょい大人しくしてれば、多少は淑女なのによ」
リーヨォは毛布の中で、立場を忘れ嬉々として研究に没頭する少女を思い浮かべ、深いため息をついた。
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