「ただいま」
「……お帰りなさい」
不祥事が明らかになってからローンが残るマンションを売り払い、手狭なアパートに引っ越して来た為に、玄関で声をかけるとすぐに帰宅が分かり、妻の美佐子がいつも通りのどこか疲れた表情で出迎えた。問題が発覚してから未だに続いている、家の冷え冷えとした空気を改めて認識した村上だったが、いつも通りを装って何とか食事を済ませる。
そして食後にお茶を飲んで喉を潤してから、帰宅するまで考えていた事を口にするべく、隣接する台所で洗い物をしている妻に声をかけた。
「美佐子、話があるからちょっとここに来てくれ」
「何かしら?」
怪訝な声で応じた美佐子だが、それでも素直にやって来て村上の正面に座ると、正座していた村上は改めて姿勢を正して話を切り出した。
「実は……、四月に異動の話があるんだ」
「あら、今度はどこ? 関西支部の中ではたらい回しの先が無くなって、沖の鳥島にでも営業所を作る事になったのかしら?」
些か皮肉っぽく美佐子が応じたが、それには構わず村上は話を続けた。
「東京本社の企画推進部だ」
「……へぇ?」
そこで如何にも疑わしげな視線を向けてきた妻に、村上は口ごもりながら続ける。
「この話は嘘じゃない。嘘じゃないが……、結構面倒な部署になりそうなんだ。高飛車な社長令嬢のお守りをしないといけないらしい。それに……」
(何やら得体の知れない奴が、ひっ付いてる可能性があるしな……)
自宅への帰途で遭遇した、意味不明正体不明の男の事を脳裏に思い浮かべた村上は、その人物の事まで説明したものかどうかを咄嗟に躊躇した。その為黙り込んでしまうと、先を促す美佐子の声が聞こえる。
「それで?」
「面倒な職場だとは思うが、行ってみたい。これが、俺が営業の仕事に携われる最後のチャンスだと思うんだ。だから……」
「だから、何なの?」
そこで村上は息を整え、帰り道で考えていた内容を一気に言ってのけた。
「今まで散々嫌な思いをさせて、迷惑のかけ通しだったから、今更こんな事を言えた義理じゃ無いんだが……、頼むから俺と一緒に東京に行って欲しい。慣れ親しんだ地元を離れて、見ず知らずの場所で更に苦労をかけると思うが、俺はやっぱりお前達が居ないと駄目なんだ」
そう言って頭を下げた村上に、美佐子が冷静に指摘してくる。
「私や子供達が嫌だと言ったら行かないわけ? 今の閑職から抜け出すチャンスなんじゃないの? 自分だけ東京に行くって選択肢は無いわけ?」
考えないでも無かった事を言われて村上は一瞬怯んだが、決意は変わらなかった為、落ち着き払って答えた。
「ああ、お前達が納得出来ないなら、その時は先方に頭を下げる。だがその場合でも、定年までは関西支社に居座って、何とか食い扶持は稼ぐつもりだ」
真剣に訴える夫の姿を眺めた美佐子は、何故かここで話を逸らした。
「そう……。それなら悪いけど、ちょっと電話を一本かけて良いかしら?」
「あ、ああ……、構わんが」
一応頷きながらも、話の腰を折られた村上は(どうしてそれなら、なんだ?)と怪訝な顔をしたが、そんな夫には構わず美佐子は携帯と何やらメモ用紙を手に取ってどこかに電話をかけ始めた。しかしその内容を耳にして、村上が仰天する。
「もしもし? 夜分恐れいります。柏木さんですか?」
(は? 今、柏木って言ったか?)
村上は驚きで頭の中が真っ白になったが、美佐子は礼儀正しく会話を続けた。
「……はい、村上です。今日のお話ですが、柏木さんのご意向に添う形で、進められそうですのでご連絡致しました。…………はい、いいえこちらこそ。…………それでは宜しくお願いします。失礼致します」
そして美佐子は通話を終わらせてから、村上の表示を見ておかしそうに笑った。
「ちょっと、何、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしてるのよ」
「美佐子? 今の柏木って……。まさか本社の柏木係長じゃ……」
「勿論そうよ。今日の午後、ここにいらしたんだもの」
「はあぁ!? 何だそれはっ!? 俺は聞いてないぞ!」
思わず心持ち詰め寄った夫に、美佐子が平然と応じる。
「だって柏木さんは内緒にしておいて反応を見るって仰ってたし」
「どういう事だ」
僅かに表情を険しくした村上に、美佐子は小さく肩を竦めてから、事情を話し出した。
「柏木さんはね、私に異動の話を一通りしてからこう言ったの。『先般の不祥事の最大の被害者はご家族です。それなのにこの期に及んでも自分のプライドや功名心を優先して、家族を無視して異動話を受ける様な人物なら、早晩潰れます。家族の支えが無かったら、この話は務まらないと思いますので。その時はあなたやお子さんの為に別れた方が良いと思いますから、離婚専門の弁護士を費用こちら持ちで付けて差し上げます』って」
「なっ!」
予想外の話に思わず絶句した村上だったが、美佐子は冷静に話を続けた。
「それで『そうではなくきちんとご家族に頭を下げて、異動を了承して貰うつもりなら、まだ見込みはあります。その時はこちらにご連絡下さい』って、この連絡先を貰ったの。あなたが貰った名刺の電話番号にかけてたら、話は無かった事になっていたのよ?」
「……それは本当か?」
どこか悪戯っぽく笑いながら目の前でメモ用紙をヒラヒラと振ってみせた美佐子に、村上は半ば呆然として呟いた。そこで美佐子は笑いを消し去り、真顔で告げる。
「今日、一時間位柏木さんとお話ししたの。と言っても、殆ど私が一方的に喋っていたんだけど。あなたがしでかした事から、その後どうなったのか、ひたすら愚痴や恨み言を言ってたのに黙って聞いてくれたわ。それだけで随分気持ちが落ち着いたんだけど」
そこで一度話を区切った美佐子は、これ以上は無いと言う位、真剣な顔付きで夫を見据えながらある事を口にした。
「それで、柏木さんは『一年間だけ我慢して下さい』って頭を下げたの」
「はぁ? 何で一年なんだ?」
「来年下半期の決算で、本社内での新規契約売上高が部署別で一位になったら、最低ランクになっているあなたの年齢給と業績給を相当のレベルに戻す約束を、経営陣から取り付けているそうよ」
その事が示す重大性に、村上は流石に度肝を抜かれて声を荒げた。
「何だと!? そんな事一言も聞いてねぇぞ! 第一、社内外的にも無理だろう!?」
「そんな話をしたら、家族の事なんてそっちのけで話に食い付きそうだから、本人には言わないでおきますって。それに口約束とかじゃなくて、ちゃんと文書で取り交わしているそうよ」
「何だそれは。予想以上に食えない女だな……」
感謝するのを通り越し、心底呆れ果てて舌打ちした村上だったが、それを見た美佐子は笑いを堪えながら感想を述べた。
「でも……、あの人だったら、今のあなたを正当に評価してくれると思うのよ?」
「美佐子」
そこで美佐子は、口調を更に穏やかな物に変えて村上に言い聞かせる。
「良かったわね。五十を過ぎてから、そんな上司に仕える事ができるなんて。もし一年後に一位を取れなくてお給料が据え置きでも、きっとあなたは柏木に入った事を後悔せずに退職できると思うわ。勿論、私も満足よ」
それを聞いた村上は、黙って俯いた。そして暫くその場に静寂が満ちたが、膝の上で握り込んだ村上の拳に、ポタポタと幾滴かの涙が落ちてから、かすれ気味の声が発せられる。
「……美佐子、俺は決めたぞ」
「何を?」
「あのくそ生意気な柏木のお姫様を……、俺は絶対に柏木の女王様にしてやる」
頭を上げ、赤くなった目を隠す事無く、決意を込めた視線を妻に向けた村上だったが、美佐子はすこぶる冷静に反論した。
「それはちょっと無理じゃない?」
「おい、人の決意に水を差すな!」
「だって、柏木さんの年齢から考えると、順調にいって社長就任は二十年後、間に誰か挟んだら三十年後ってところじゃない? その頃あなたはとっくに定年退職している筈だもの」
「……まあ、確かにな」
淡々と指摘された内容を認め、気勢を削がれてがっくりと項垂れた村上を慰める様に、美佐子がゆっくりと言葉を継いだ。
「だから、まず部署の業績を上げるのが一番だけど、落ち着いてきたらあなたが辞めた後も柏木さんの忠実な手足になって働いてくれる、後進の育成をすれば良いのよ」
それを聞いた村上は、嬉々として顔を上げて妻を褒め称えた。
「そうか。それはそうだな。美佐子、お前は天才だ!」
それを聞いた美佐子は、照れ隠しの様に苦笑しながら立ち上がる。
「何真顔でバカな事を言ってるのよ。そうと決まれば忙しくなるわよ? 二ヶ月足らずで引っ越しや転入学の手続きを済ませなくちゃいけないんですからね。どうせ暇なんでしょ? あなたも手伝ってよ?」
「おう、時間は有り余ってるから何でもやってやる!」
「それって威張って言う事なの?」
そうして夫婦二人揃って失笑し、村上は久し振りにわだかまりの無い空気の中で、新しい上司に対する感謝の念を新たにしたのだった。
そして四月。東京本社に異動した村上は、周囲から好奇と侮蔑の視線を受けながらも忙しい日々を過ごしていた。
同僚達に聞いてみると、皆本人の知らない所で真澄が妻子に接触した事が分かり、揃って苦笑する。加えて正体不明の男が接触して、大金を払おうとした事まで同じで、皆一様に首を捻った。
「結局、あの男は誰なんだ?」
「課長にはボディーガードなんか付いていないって笑われたし」
「運転手もチラッと顔を見たけど、別人だったぞ」
「弟さんは営業一課の係長と美容師らしいが、説明して貰った外見とはどちらも異なるしな」
当初はスカウトの妨害かと思っていた人物だったが、異動が決まってから『引っ越し祝いだ』の簡単なメモを付けて、全員の家にメール便で無造作に百万円が送られてきた事実が確認され、一同は「要は金で容易く買収される様な人物かどうかを試されたのか?」との見解に落ち着いていたが、その人物に対する疑問が解消する機会は、意外と早くやってきた。
「それではこの方向で案を纏めて頂けますか?」
「分かりました。……あの、課長。そちらの写真ですが、弟さんが二人おられるとは存じていましたが、妹さんもいらっしゃったんですか?」
真澄の席の背後に回り込んで、一緒にパソコンのディスプレイを覗き込んでいた村上は、ふと机の片隅に置かれたデジタルフォトフレームの画像に目をやりつつ尋ねた。すると真澄は明らかに年下と分かる女性とのツーショット写真に目を向けながら、笑って答える。
「弟は二人で間違いないわ。この子は父方の従妹なのよ」
「従妹さんですか……、可愛らしい方ですね」
「そうでしょう? この春に高校を卒業して大学生になったんだけど、変な虫が付かないかこの子の過保護なお兄さんがやきもきしててね、面白いったらないわ」
そう言いながら真澄が表示データを変更すると、卒業式の看板がかけられたどこかの校門で撮影されたらしい写真が映し出され、それを見た村上が瞠目した。
(この男!?)
いつぞやの自分に大金を文字通り叩き付けた男を目にして村上は動揺したが、そんな内心は面に出さずに何気なく問い掛けてみた。
「課長、この人物は、先程お話があったこの子のお兄さんですか?」
「ええ、そうよ」
「それでは課長の従兄弟ですか?」
その問い掛けに、真澄は何故か小さく苦笑いしながら答える。
「確かにこの子は私の従妹なんだけど、彼は叔母が結婚した人の連れ子だから、血は繋がっていない義理の従兄弟なの」
「ああ、なるほど」
そこであっさりと話を止めて村上は自分の席に戻った。気になっていた男の素性は分かったものの、どうしてあんな事をしたのかは不明のままだったが、どのみち通常業務に支障はないと割り切り、それから彼の事は一切綺麗に忘れ去り、仕事に没頭していった。
※※※
「……さて、それでは今年度の目標ですが、今年の売上高を前年度比二割増でいきたいと思います」
それから時が過ぎ、敬愛する上司が結婚し、産休に入ったのと入れ違いに二課に乗り込んできた男は、初めて出会った時同様に不遜でとんでもない事を言い出してきた。
「二割増、ですか?」
ヒクッと自分の顔が引き攣るのを自覚しながら、同様に顔を青ざめさせている周囲を代表して村上が問いただすと、課長代理がしれっとして駄目押しをしてくる。
「ええ。本当は前年度の二倍と言いたい所ですが、そんな事をしたら真澄が復帰した後が大変そうですので」
(殊勝なふりして、若造が暴言吐くな!)
盛大に心の中で怒鳴りつけた村上だったが、相手は含み笑いをしながら問いかけてくる。
「村上さん、俺では二倍や二割増は無理だと仰る?」
その物騒極まる笑顔を認めた村上は、長年培った勘で逆らっては駄目だと察し、微妙に視線を逸らしながら応じた。
「……いえ、どちらも課長代理には可能だとは思いますが、復帰後の課長の心労と我々の心身の健康を保つ必要性を考えますと、やはり二割増の目標にして頂ければ大変ありがたいと思います」
「そうでしょうね。理解が早くて助かります。これから宜しくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
そう言って満足そうに頷いた課長代理に再度頭を下げながら、(ここに配属になってからオーバーワークは当たり前だったが、今度こそ過労死するかもしれんな。そろそろ本気で遺書を用意しておく必要があるかも……)などと色々諦めつつ腹を括った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!