「藤宮さん、ちょっと良いかしら?」
「課長? ……って! 何されてるんですかっ!?」
「え? な、何かまずいの?」
振り返ったと思ったら目を丸くした美幸に叱りつけられ、真澄は動揺した。すると美幸は顔をジャケットの袖でゴシゴシと乱暴に拭ってから、素早くそれを脱いで真澄の目の前の床に広げて指し示す。
「課長はもうお腹が大きいですし、冷たい床に直接座ったりしたら駄目です! さあ、こちらにどうぞ!」
「あの……、良いわよ? そこまでしなくても」
「いえ、絶対駄目です! どうぞ!」
「……それじゃあ遠慮無く」
美幸に気迫負けした真澄は、タイルの床に敷かれたジャケットの上に躊躇いながら正座した。そして徐に口を開く。
「藤宮さん」
しかし真澄が何か言う前に、美幸が勢い良く頭を下げて謝罪してきた。
「課長。取り乱してすみませんでした! 課長が近々産休に入られるのは勿論分かってました。分かっていたつもりなんですが……、前倒しで休まれる事になって、実はあまり納得できていなかった事と相まって、部外者が二課に乗り込んで来た事に動揺してしまった様です」
その素直な謝罪に、真澄の顔も自然に緩む。
「あなたの反応は極端かもしれないけど、動揺するのは当然よ。私だって夫が代理を務めるのを、ついさっき医務室のベッドで聞いたのよ? 父とグルになって今まで隠してて酷いと思わない?」
「本当ですか? 当事者にギリギリまで秘密にしてるなんて、呆れて物がいえませんよ」
「そうよねぇ」
そこで顔を見合わせて小さく噴き出してから、真澄は顔付きを改めて話を続けた。
「藤宮さん、私、本当の事を言うと、去年まで結婚も出産も諦めてたわ。相手がいないし、仕事上でもマイナスにしかならないって考えて」
「確かに色々難しいですよね」
「でも幸運な事に結婚できたら、是非子供も欲しいと思ったの。大変なのは分かっているけど、その分人間的に一回り成長して、視野を広げられると思ったから」
「そうですか」
美幸が(課長らしい考え方だな)としみじみ思っていると、真澄が苦笑いしながら話を続ける。
「それと……、もう課長職に就いていたからって事もあるんだけど」
「どういう意味ですか?」
今度は意味を捉え損ねて不思議そうな顔を向けると、真澄はそれについての説明を加えた。
「課長職のまま産休育休で一年以上職場から離れるのは、今まで本社内では前例が無いの。以前課長が妊娠したケースでは、職場に穴を開けない様に辞職して、子供の手がかからない時期になったら平社員として再就職したり、割と余裕のある職場や子会社に配置転換されたりしてから、元の職場に戻っていたのよ」
「何なんですかそれは!」
さすがに憤慨した美幸が叫ぶと、真澄は幾分困った様に話を続けた。
「勿論私も、現場の大変さは分かっているから、去年までは出産の事は意識的に考えない様にしていたんだけど、せっかく力量十分のサポートしてくれる人材がいるんだから、それに甘えて後進の為に前例を作ってしまおうと開き直ったの。そもそも二課の皆を全国からかき集めた時に、社長令嬢権限で色々無茶をやったから、もう上層部も私に絡む事では諦めているのよね」
最後は茶目っ気たっぷりに言い切った真澄に、美幸は思わず笑いを誘われた。
「課長、ご主人の事、そんなに信頼してるんですね……」
「全く心配していないと言えば嘘になるけど、今回の私のケースがうまくいくかどうか、父と夫が自分の首を賭けているそうよ。それなのに信用してあげなかったら、可哀想じゃない?」
「そうですね」
そこで苦笑いで応じた美幸に、真澄は更にたたみかける。
「それに夫から、『真澄の椅子は俺が守る』と言われて、凄く嬉しかったの。だから藤宮さんには、そんな夫を支えて貰ったら嬉しいわ。お願いできないかしら?」
そんな事を軽く首を傾げながら言われてしまった美幸は、ちょっと泣き笑いの表情になった。
「もう……、真面目な話をした後で、のろけないで下さい、課長」
「ごめんなさい」
そこで美幸はもう一度両目を擦り、真顔になって力強く頷いた。
「分かりました。色々不安はありますが、課長が居られない間、ご主人を全力でサポートする事を誓います。ご主人がとんでもないヘマをして課長の名前に泥を塗ったりしないように、目を光らせておきますから。ご主人が課長の椅子を守ると言うなら、私はそうやって課長の名誉を守ります! ご安心下さい!」
「あ、ありがとう……。心強いわ……」
力一杯宣言した美幸の前で、何故か真澄の顔が引き攣る。しかしそれに気付かないまま、美幸はすぐに顔を歪めた。
「だからっ、その代わり……、元気で可愛い赤ちゃんを産んで下さいね? そして……、そして、職場復帰なさる日を、一日千秋の思いでお待ちしてます!! かちょうぅぅ~っ!!」
そこでとうとう我慢できなくなった美幸は、真澄に抱きつきながら盛大に泣き叫んだ。その背中を撫でながら、真澄が宥める。
「ありがとう。心強いわ。二課の事を宜しくね」
「おっ、おばかぜぐださいぃぃ~っ!」
そして殆ど涙声で、何を言っているのか聞き取りにくい内容を延々と喋り続ける美幸に適当に相槌を打ちながら、真澄は密かに溜め息を吐いた。
(絶対、今のやりとりを外で聞いて居たわよね……。後から清人に釘を刺しておかないと)
そんな真澄の懸念通り、トイレの出入り口横の壁に背中を預けて女二人のやり取りに耳を澄ませていた清人は、おかしそうな笑みを浮かべながら組んでいた腕をほどいて廊下を歩き出した。
「……俺がヘマしないように見張って『課長の名誉は私が守る』か。随分な大言壮語を吐く部下がいたものだな? 城崎。なかなか楽しめそうだ」
どう見ても獲物をいたぶる肉食獣の笑みにしか見えない表情に、清人と同様にトイレの前で一部始終を聞いていた城崎が、追いすがりながら必死で取りなそうとする。
「佐竹先輩! その! 彼女は今日はちょっと取り乱していまして! いつもそんな傍若無人な発言をしているわけでは!」
「『柏木課長代理』だ。一週間だけは大目にみてやる。さっさと呼称は直しておけ」
ざっくりと切り捨てられて顔を強張らせたものの、城崎はここで奥の手を出した。
「柏木課長代理。彼女は白鳥先輩の義妹でもありますので……」
暗に(あまり無茶な事はしてくれるな)と訴えたものの、相手は笑いながら何でもない事の様に頷く。
「……ああ、そう言えばそんな話も聞いていたな。早速今日のうちに、白鳥先輩に許可を貰っておこう」
「許可って……、一体何の許可ですか!? ちょっと待って下さい、柏木課長代理!!」
明らかに狼狽して問い詰める城崎に、清人は得体の知れない笑みで応じ、企画推進部二課の未来は、益々混沌としたものになっていくのだった。
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