水曜、未明。午前一時。南麻布。
雨はそんなに強くはない。俺は準備万端だ。腹ごしらえは、地元の行きつけの松屋で済ませてあった。ここらで食うのは、この格好だと目立つからだ。兵頭邸周辺は人通りもほとんど無く、あまりうろうろするのはハイリスクだ。勝負は一瞬、ヒットアンドアウェイの精神で行こう。
「あー、あー。由紀奈はデブ。由紀奈はデブ。聴こえるかー」
『デブじゃねーし。むしろ痩せてるほーだし。そっちはどー、聴こえる? このハゲー』
「ハゲじゃないです……」
俺と由紀奈は今、由紀奈の開発した通信アプリを使って会話している。これまた由紀奈が市販のBluetoothデバイスを改造して作ったカメラ付き片耳イヤホンでこちらの映像を常時飛ばしながら通話し、由紀奈はそれで俺をモニターしながら、俺に必要な情報――現在時刻、天気、気温、湿度、周辺地図、乗換案内、渋滞情報の他、兵頭邸の間取り図、兵頭家の家系図、用心棒プロフィール、ALS○K接近警報、爆発までのカウントダウン、そして、彰子のブラ画像(加工済)などを俺のスマホに適宜表示させる。LINE通話の、泥棒、いや、探偵バージョンといったところか。かなりの優れものだ。こんなのよく作れるな。
「よし、じゃあ始めてくれ」
『おっけー、いっくよー』
「ああ待った、靴を履き替えるの忘れてた」
『なんだよ』
見た目普通なスニーカーから、地下足袋に履き替えた。ビニール傘とはここでグッバイだ。
「よし大丈夫だ。やってくれ」
『はい、はい』
「宅周りの監視モニターは」
『だいじょーぶ、静止画像差し込んだ』
「完璧だな!」
『十五分くらいが限度だと思うよ。あとは淳ちゃんしだいだね。はい、ALS○K切れましたー』
「俺の出番だああああ!」
『おっきい声出すなって。ほんとアホ。十五分のカウントダウンつけとくけどあくまで目安ね、勘づかれたらアラート出す』
午前一時〇二分、彰子ブラ奪還作戦を開始した。
俺はまず、兵頭邸の塀めがけて突進した。手前でジャンプしてっぺんを掴み、壁面をガシガシ蹴ってよいせと這い上がった。偵察の時に目をつけておいた、庭の立派な松にすぐさま飛び移り、枝を伝って建屋を目指す。ちょうどあつらえ向きのいい松があったものだ、としみじみするが、いやここはアンストッパブルだ。勢いのままに枝からジャンプし、一階の軒の先を両手で掴んでぶら下がる。ここで直接屋根の上に降りてしまうと、その衝撃でバレて一発でアウトだ。地味に見えるが、実は一番の難関だ。身体能力にものを言わせて、屋根を掴んだ手を支点とした俺という振り子の角運動量を全身の曲げ伸ばしで制御し、そこに腕の力を乗せて屋根の上によじ登った。器械体操の鉄棒なんかでお馴染みのあの動きだ。
『やるじゃん』
「サルみたいだろ?」
『自慢で言う?』
「惚れんなよ」
『誰が。死んどけ』
窓ガラスを切ってクレセント錠を解除し、とうとう侵入に成功した。ここがちょうど、兵頭の主寝室だ。彰子ブラのありかの本命と言っていい。そっと扉を開けて、部屋の外の様子を伺う。階段周りは明るいが、二階廊下の灯りは消えていた。どうやら用心棒二人は下階にいるらしい。お願いだから寝ててくれ。
「さ、謎解きタイムだ。彰子ちゃんブラのありかを突き止めろ!」
『楽しそうでなにより』
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