私は「虫が駆除されている」という現実が気になって仕方がありません。
……いや、自分が食べている野菜も虫を駆除して育ててくださっているのだし、私自身虫を駆除したし(職場に沸いていた虫とか)、毎日虫を踏み殺しているし、何か言えるような立場ではないのですが。
考えてみました。社会の闇なんてごまんとある中、なぜ私は「虫の駆除」ばかり気になるのか?
……で、この間気づきました。見つけた虫、気になった虫、ウェブ検索すると「害虫、駆除、害虫、駆除……」そういう情報ばっかり出てくるんですよね。
特に「家にいる虫」ってのは「害虫」にカテゴライズ(?)されやすくて。純粋に生態や見分け方が気になって検索しているのに、ずーっと害虫駆除情報が出てきます。害虫、害虫、害虫……。
つまり「読みたい情報を妨害されている」「そんなことが知りたいんじゃねぇよ」とストレスが溜まっているのではないか。それで害虫駆除のことばかり気になっているのでは。
人には何か「得たいもの、求めるもの」があり、その前に立ちふさがっているように見えるものを特に疎ましく思うのかもしれませんね。無意識であっても。
まぁ以前は動物の殺処分のことばかり自ら調べて気になっていたので、自分から足突っ込んでいる感じもありますが。
なんか「犬を食べるのはひどい、ペットの殺処分も虐待もひどい、けど牛豚鶏は食べて当然で感謝して食べるべき、ゴキブリは憎んで殺せ」みたいな「命の格差」の壁にぶち当たって、ちょっと冷めました。
一時何かに対して「そうだそうだ!」と熱くなっていたけれど、今は熱くなれるところを見失いました。「結局どうやったって殺さないと生きていけないし、それを勝手に美化したり正当化したり善悪論で語ったり、一方に肩入れしたり、何かと敵対しないと生きていけないんだよね」と。
人は贔屓しかできません。人同士でも、好きな人、苦手な人、接しやすい人、接しにくい人、気が合うとか合わないとか、色々あるものですし。好きな人には好き、苦手な人には苦手、それなりの態度を取ってしまいます。
有名無名、貧富の差も、ありますね。好きな生き物、苦手な生き物、人気の生き物、嫌われ者、偏りあります。
ゆる~く絶望している方が楽かもですね。
無条件に命を尊び慈しむ人間など存在しないでしょう。もちろん、自分も含め。
いや、「すべての命を尊び慈しむ人」、実はどこかにいるけど、俗世から離れた山奥かなんかで仙人みたいに暮らしていて、普通の人間じゃその人には出会えないとか? などと夢見て現実逃避したくなりますね。
生き物探求していると、世界の闇は避けて通れません。闇など慣れたはずなのに、たまに油断していたのか、不意打ちで凹みます。私がうまく割り切れておらず、性格悪いだけか。
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