クッションに顔を埋めたまま、黙ってしまったカリン。
心を落ち着けようとしているのか、俺たちを説得させる言葉を探しているのか、俺には分からない。
だけど、ようやくカリンの本当の気持ちが見えたような気がした。
カリンは決してその国の王子に嫁ぎたいわけではないはずだ。このダジュームに転生してきて、何もわからない状況で妥協に走ろうとするのは当然のことだ。
こんな異世界で、誰しもが一人でやっていけるとは思わない。
訓練を積んで、スキルを身につけ、ジョブに就くなんて、俺だってまったく実感のないただの絵空事だ。
でもやるしかない。
俺はこの第二の人生だって、後悔のないように生きたい。きっとカリンだって――。
「ジョブだったらなんでもいいってか? オファーが来たから楽な道に収まろうって? それじゃ、元の世界でやってきたことと一緒じゃないのか?」
黙ってしまったカリンの言葉を、俺が繋げる。
これがカリンの本音なのかどうなのか、俺には分からない。
元の世界でカリンがどんな生活を送ってきたのかは知らない。
白鷺財閥の一人娘で、俺からすると羨ましい限りだが、実際カリンにとっては仮面を被らされて地獄だったのだろう。
さっき俺の背中で彼女が語ったことを忘れていない。我慢して自分を出さずに、居場所が欲しくて、他人が期待する自分を演じていたって。
だけど、ダジュームに来てからはいつも前向きで、笑顔を絶やさずがんばるカリンのことは知っている。
あれは決してカリンが演じていたものではなかった。
ホイップに料理を習って、パンを焼けるようになったときに見せた笑顔は作りものじゃなかった。
今日、裏山にホーラン草を取りに行ったのも、一人でできるところを証明しようとしてだ。
さっきも、パン屋で働きたいって言ってたじゃないか。
「元の世界でできなかったことを、このダジュームでやろうとしてるんだろ? 一人で生きていくのを、楽しみにしてたんだろ?」
俺の言葉に、カリンは返事をしない。
続けてシリウスが俺の言葉を引き受ける。
「カリンさん、僕には何が正解かは分かりません。僕だって、元の世界の後悔もいっぱいあって、このダジュームではなんとか人の役に立ちたいと思っているけど、どれだけ訓練しても魔法の才能がないみたいなんです。笑っちゃいますよね」
珍しくシリウスが自虐的に笑う。
「僕なんかすでに挫折もしてます。これからどうなるか考えると、心が折れそうです。でも、僕は諦めません。このダジュームの人の役に立てるジョブを探すつもりです。二回目の人生は、ちゃんと生きようって、そう決心してますから」
実は俺もシリウスのこともほとんど知らない。元の世界で何があったのか、なぜ死んだのか、シリウスは語りたがらないのだ。
脛に傷を持ってダジュームに来たのかどうかも分からないが、シリウスも変わろうとしているのだ。
それはカリンも一緒のことで――。
「俺たちはソの国の王子と結婚することを否定してるわけじゃないんだよ。カリンが本当に、それでいいのかって聞いてるだけだ。無理して、それこそこのハローワークのことを考えての決断だったらやめとけって言いたいんだよ」
顔を見せないようにしているカリンは黙って俺たちの話を聞いてくれている。
カリンがこれまでどんな無理をして生きてきたかは俺たちには分からない。なぜ死んでしまったのかも、わからない。
でも、そのことを後悔しているなら、なおさらだ。
「元の世界の生活を後悔してるんだったら、ダジュームでいくらでもやり直せるんだ。誰かのためじゃなく、カリンが本当にやりたいことをやれるんだよ。俺たちアイソトープには、もう未来しかないんだから」
過去はもう俺たちの影を引っ張らない。
世界が変われば、歴史は変わる。前に進む未来への道だけが広がっている。
「ケンタさんの言う通りです! 僕たちそれぞれどんな過去があって、ここに転生してきたかは知りません。でも、それでいいじゃないですか。今があるんですから。二回目の人生があるだけで、変わるチャンスをもらったんですから!」
「そうだよ。オマケみたいなもんだよ。だからさ、やりたいように生きようぜ。そのほうがきっと楽しいしさ!」
俺とシリウスは大げさにはしゃいでみせた。
シリウスが言うように、何が正解かは分からない。
なぜ俺たちが王子との結婚を否定したいのかも、本当はよく分からない。ソの国の王子に会ったこともないのに、めちゃくちゃ良い奴かもしれないのにさ。
でも会ったこともない奴と結婚することを、カリンが本当に望んでいるとは思えない。楽しそうには思えない。カリンが無理しているのなら、楽しくないのなら、止めてやるのが俺たちの役目だ。
だって――。
「俺たちは家族なんだろ? 同じ屋根の下で訓練する家族が無理してるのは見たくないんだよ」
裏山からの帰り、カリンは言った。
『自分の場所が欲しかった』って。
それを作ってやるのが、家族ってもんだろ。
「大丈夫じゃなかったら、大丈夫じゃないって言えよ。家族はいつもお前の味方だから」
俺には死んだときの記憶がない。
シリウスやカリンよりも、過去に対する思い入れも少ない。
こんなこと言える立場かどうかは知らないが、でも、みんなが楽しくやれれば、それだけで俺は嬉しい。みんながみんな、希望のジョブに就いて第二の人生を送れればいいのに。
「私……」
カリンはクッションから顔を上げた。
顔を上げたカリンはただ無表情で宙を見つめていた。それは自暴自棄や放心ではないことはよく分かる。
笑顔で作ってきた過去から逃れたカリンは、唇を噛みしめながら俺たちを見渡した。
俺たちはもう言いたいことは言った。あとは待つだけだ。
すると間もなく、カリンが決意を決めたように、語りだした。
「……私、元の世界では何もできないお嬢様だったの。いつもそばに誰かがいて、自分の意志なんかなくて、ただ笑ってればすべてが進んだ。私は笑っているだけ。それだけの存在」
ふっ切れたように、カリンは自嘲気味に話す。
「それで、いろいろあって死んじゃって、ダジュームに来たじゃない? 転生してきたじゃない? それでシャルムさんが私に言ったの。『ここでは一人で生きていかなきゃいけない』って」
それは俺も言われたことだ。
そのために訓練をしてスキルを身につけ、ジョブに就くのだと。それが異世界ハローワーク。
「私、嬉しかった。ずっと一人で生きていきたいと思ってたから。死ななきゃずっと、私は一人でいられなかった。本当の自分を押し殺して、誰かの隣で笑ってるだけの人生だったの。ダジュームなら、私は私らしく生きられるって、そう思ったの。ここなら一から、私は生まれ変われるんだって。本当の私を出していいんだって」
異世界転生についてやけに受け入れが早いと思ったのは、それが原因だったのかと腑に落ちた。
カリンはこの異世界に希望を持ったんだ。
死ぬことによって、救われる人生もあるんだ。
「生まれ変わろうと思った。今度の人生こそは、自分を騙さずに、やりたいことをやって、自分らしく生きようって。……でも、ダジュームでも私は何もできなかった。今日も勝手に行動して、怪我して、助けられて……。やっぱり私は一人じゃ生きられない。だから……」
カリンは再びクッションに顔を埋め、肩を震わせた。
「カリンさん……」
シリウスが優しさに染みた声で、名前を呼ぶ。
「カリン……」
俺も思わず、その名前を呼ぶ。
するとカリンはぐっと、顔を上げた。
その目には涙を浮かんでいた。
「そうよね、私には家族がいるんだから! ダジュームでは、一人じゃないんだから!」
ごしごしと両手であふれる涙をふき取り、次に見せた顔は笑顔に戻っていた。
決して作った笑顔ではない、カリンの生の笑顔。
「もう自分を騙すことはしない。私は私、カリン・シラサギは、もう迷わないわよ!」
赤くなった目を大きく開き、歯を食いしばるように大きく頷くカリン頬にはえくぼがふたつ、浮かんだ。
「じゃあ、カリンさん……。それじゃあさっきのオファー……」
シリウスが、恐る恐る慎重に尋ねる。
「どこの馬の骨か分かんない男と結婚なんてするわけないでしょ! ダジュームなら私にだって仕事や恋人を選ぶ権利があるんだから!」
今度こそ完全にふっ切れたように仁王立ちするカリン。少し顔が紅潮している。
「もうお姫様とかお嬢様は、私には必要ないの! 誰かに決められた人生はもうごめんよ! 私は自由に恋愛をして、自由に生きるの!」
腰に手を当て、高々と宣言するカリン。
キッチンのほうからホイップが何事かと飛んでくる。
「カリンさん、大きな声を出してどうしたんですか! シャルム様に叱られますよ!」
「ホイップちゃん、私、こんなお城にお嫁なんかに行かないからね!」
と、カリンはテーブルに置かれていたオファーの書類を手に取り、ぐしゃぐしゃに丸めてしまった。
「こんなもの、こうしてやるんだから!」
ぽんと丸められた書類を空中に放り投げ、すかさず左手をかざす。
「ファイヤー!」
そう叫ぶと同時に、カリンの手のひらから炎が噴き出て、一瞬にして書類を燃やし尽くしてしまった。
俺とシリウスは、そのカリンの堂々とした魔法の手技を口を開けて眺めているだけだった。
「お見事です、カリンさん! どうやら火の初級魔法を習得したみたいですね!」
パチパチと手を叩くホイップ。
今朝見た魔法より上達してないか? なんか攻撃性が増したというか、オーブンに火をつけたときよりも強力になってたぞ……。
「明日からも料理訓練をお願いします!」
ぺこりと頭を下げるカリン。
料理よりも魔法訓練をした方がいいのではと思ったが、シリウスもいるので余計なことは言わないでおこう。隣のシリウスはもうへこむどころか放心状態である。
「しょうがないですねー。でも、私もお料理の先生ができるので嬉しいです!」
ホイップとカリンはパチンとハイタッチを交わした。美しき師弟関係の復活である。
「そもそも恋と仕事を一緒に考えるって、思考が古すぎない? 江戸時代じゃないんだから、恋は自分の手でつかみ取れって感じよね! 肩書で恋するようじゃ、ソの国の王子もまだまだ若造よね!」
「ま、まあな……」
「恋も仕事も、自分が決めるの。今立ってる道は、私だけの道なんだから。無限に広がる道の中で、どの道を歩いていくのかは私が決めるの! 家や親に決められた安全で迷わない道なんて、どれだけ歩いたって面白くないもの。私は転んでも、迷っても、自分で決めるの!」
「そ、そうですね……」
「何もできなくたって、失敗したって、何かをしようとした経験は私の中に残るの。だから、私はダジュームでがんばる。先が見えない未来のほうが、楽しいから!」
決断を下すと、カリンは堰を切ったように喋りまくった。
これまで閉じ込めていたものを、すべて吐きだそうとしている。
被っていた仮面がなくなったカレンは、とても素直だった。ちょっと口が悪くなったようだけど。
「シリウスくんにケンタくん、ホイップちゃんも! 私はもう大丈夫! 大丈夫なの!」
ぐっと両こぶしを握るカリンは、俺たちよりも、とにかく自分に言い聞かせているようだった。
――大丈夫。
その言葉が、カリンの過去の呪縛をすべて振り切ったように、俺には見えた。
だって今のカリンは、本当に嬉しそうだったから。
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