できるだけ早くハローワークを出ていく。
それがケンタの決意だった。
シャルムによると、ジェイドは魔王軍でもトップレベルの実力をもったモンスターである可能性が高いと言う。
キラーグリズリーを一撃で倒し、シャルムが張った結界を一瞬で解いて見せたのだ。ケンタを魔法で眠らせたことは、まあ簡単すぎて勘定には入らないが。
そんなモンスターに狙われたケンタ。
シャルムが帰ってきたことによって間一髪連れ去られることは避けられたが、これですべて解決したとは思えない。いつまたあのスーツのモンスター、ジェイドがケンタの前に現れるかわからない。
ジェイドがケンタを狙う目的は、【蘇生】スキルであろうことは、ほぼ間違いないだろう。実際にケンタは【蘇生】を使いこなせないのだが、それを正直に話して引き取ってもらえるはずがないのだ。
次こそは連れ去られるかもしれない。ケンタの力では抵抗できないことは、はっきりわかった。
スキルが目的ならば殺されることはないかもとケンタは考えたが、それは都合のいい空想だ。【蘇生】スキル自体が魔王たちにとって邪魔なスキルだとしたら、ケンタを殺してこの世から存在を消してしまう可能性もあるのだ。
魔王にとって生き返らせたくない人間がいるのならば、【蘇生】のスキルは邪魔でしかない。
そう、ケンタもうすうす考えていたのだ。
救世主ウハネを生き返らせることができたなら――。
先代の魔王を倒し、ダジュームを救ったウハネが蘇れば、きっとダジュームは再び平和が戻ることだろう。魔王にとっては、由々しき事態になる。
ケンタも自分自身で【蘇生】を発動させる条件は分かっていないので、これは妄想、絵空事である。そもそも何百年も前に死んだウハネの死体が今も残っているとは思えない。
だが、魔王にとっては放っておけないと考えたのではなかろうか?
もし【蘇生】のスキルを持つ者がダジュームに現れたとしたら、それだけで不安の種にはなってしまう。
ならば消してしまおう。そう考え、あのジェイドが接触してきた……。
ケンタは考えただけで身震いがしてきた。
眠らされて連れ去られて、その先に待っていたのは確実な死だったのだ。
キラーグリズリーから助けたのはただの気まぐれで、ジェイドは自分の手で殺そうと考えていたのなら、なんてサディスティックなモンスターだろうか。いや、モンスターなんてみんなそういう生き物だ。
恐怖に縮み上がるケンタだが、これはいよいよここにはいられないと決意を新たにした。
夢を求めた頑張るカリンとシリウスに、自分みたいなトラブルの素は近くにいるべきではない。あの二人を危険にさらしてしまう。
ケンタはソファから立ち、二階の部屋に戻ろうとした。今なら同部屋のシリウスも道場で筋トレ中だ。今のうちに、荷物をまとめよう。そう考えた。
できるだけ早いほうがいい。ここを出ていかなければ――。
「あら、部屋に戻るの?」
と、そこへシャワーから出てきたシャルムがやってきた。
バスタオルを体に巻いただけの姿に、ケンタは思わず目を背ける。
シャルムと顔を合わせると、ここを出ていくとしていることを読み取られそうだったので、ケンタにとっては好都合であった。
今のケンタはエロを求める余裕もなかった。重症である。
「はい。今日は疲れたので」
「そう」
シャルムもそれ以上は何も言わず。濡れた髪をふきながらリビングに入っていった。
俺が連れ去られそうになったのを知っているシャルムは、さすがに無茶は言わない。
何も気づかれなかったと安心してケンタは階段を上がる。部屋に戻ると、ベッド二つだけが並んだ殺風景な景色を見てちょっと涙が出そうになった。
ここで夜な夜な、シリウスと語り合ったこともあった。いつもシリウスの熱い夢の話を聞いて、ケンタは頷いているだけだった。
魔王と戦ってダジュームを平和にしようとしているシリウス。
もし【蘇生】のスキルが魔王に悪用されようものなら、そんなシリウスの夢の邪魔をすることになるのだ。いや、それ以上にこのダジュームの人たちの敵に回ってしまう。
ケンタはベッドに腰かけ、自分の手のひらを見つめた。
そんな危険な力が本当にあるとした――。
「よし」
その決心は、ケンタにとって決して前向きなものではなかったかもしれない。
だが、こうするしかなかった。
ケンタは数少ない荷物をリュックに詰め始めた。そもそも裸一貫で転生してきたケンタに、自分の持ち物などほとんどない。
ベッドの下にまとめてある衣服を、リュックに入れる。服もハローワークから支給してもらったもので正確には自分のものではないが、一着だけ持っていくことにした。
服の下から封筒が出てくる。これはカフェアレアレで働いた時のバイト代だった。
いつかのときのために大切に残していたが、まさかこんなに早くそのいつかが来るとは思わなかった。
封筒の中を改めると、一か月くらいの食費にはなりそうだと、ケンタは少しだけ安心した。
「これは……」
さらに出てきたのは、一冊の冊子だった。
表紙には手書きで「アレアレア旅行しおり」と丸い文字で書かれていた。
この前、俺たち三人でアレアレアに行ったときに、カリンが作った旅のしおりだった。
ぺらっと中を開くと、分単位でスケジュールが刻まれていた。
「これ、まったくスケジュール通りにいかなかったよな……」
あまりにも見物客が多すぎて、午前中の予定をすっ飛ばしてパレードの場所取りをする羽目になったのだ。そのせいでカリンは楽しみにしていたカフェアレアレに行けなくなって、さらに午後は大変なことに巻き込まれちゃって、観光どころじゃなかった。
きっとこの時の経験があって、カリンはガイドを目指すきっかけになったのだろう。
ケンタはそのしおりを、思い出とともに大切にリュックにしまう。
荷物をまとめ、リュックをベッドの下に隠す。
ケンタはベッドに寝転がり、最後にこの部屋の天井の景色を記憶に刻み込む。
いろいろあった。
元の世界で死んで、ここ異世界ダジュームに転生してきた。
一人で生きていけるように訓練を受け、まだろくなスキルも身につけていなかったが、ケンタはここを出ていくことに決めた。
ケンタは今夜にもこっそりここを出ていくつもりだった。
行先は決めていない。とにかく、どこかへ行かなければという思いだけが彼を動かしていた。
自分のせいで誰かに悲し思いをさせたくないから。
「迷うことはないんだ。これは、みんなのため。俺がやらなきゃいけないこと……」
上を向いたのは涙がこぼれないようにするためだった。
目を閉じると、瞼の裏に短いながら濃すぎるダジュームの生活が浮かび上がる。
「ケンタさーん! ご飯できたから下りてきてください!」
下からホイップの大きな声が聞こえた。
「ああ、すぐ行く!」
ケンタはタオルで顔を拭き、部屋を出た。
悟られてはいけない。誰にも気づかれずに、今夜俺は出ていく。
この日の食卓はいつも通り終えた。
夕食が終わっても、カリンはガイドを目指すためにシャルムを質問攻めにしていた。これまでの料理訓練のほかにダジュームの歴史や地理の勉強も始めるみたいだった。
夢に向かうカリンの目はキラキラ輝いていた。
ケンタとシリウスはカリンたちの邪魔をしないように、部屋に戻った。
シリウスは訓練の疲れが残っていたのか、いつも通りすぐに眠ってしまった。
ケンタもしばらく目をつむって寝たふりをしていた。部屋の前の廊下や階段から足音が聞こえ、シャルムやカリンもようやく部屋に戻り、ハローワークに静寂が訪れたころ。
「シリウス?」
小さな声で、隣のベッドで寝るシリウスに声をかける。
もちろんシリウスを起こすためではないので、寝息が続くことに安心してケンタは静かにベッドから出た。リュックを取り出し、そのまま部屋を出る。
明かりは付けず、暗いまま手探りで階段を下りた。
もちろん一階も真っ暗で、最後にみんなで過ごしたこのリビングの風景を見れないのは少し残念だった。
静かに事務所の扉を開けると、真夜中の冷たい風がケンタの頬を撫でた。
「バイバイ……」
蚊が飛ぶほどの小さな声でつぶやき、もう振り返ることはなく、事務所の扉を閉めた。
ケンタは馬に乗り、そのまま月の明かりだけを目印に、あてもなく走り出した。
このままずっと真夜中ならいいのに。
ケンタは思考を停止したまま、未来に希望なんて持たないまま、暗闇の中に溶けていった。
このとき、馬で走り去るケンタの姿を見ていた者がいたとも知らずに――。
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