「私が死ねば、シャルムとミラは無事に生かしてくれるのだな」
水晶玉の中のギャスに語りかけるハデスに、部屋の隅で震えていた偽勇者が顔を上げた。「マジか」と小さくつぶやき、目の前の魔王の発言に驚きの表情を隠しきれていなかった。
あの魔王が、ダジュームを侵略しようとモンスターを送り込んできた魔王が、家族のために自らの命を絶とうとしている?
ダジュームの人間にとっては信じられないことだった。モンスターには感情などないと思っていた。誰かを守る行動などしないと思っていた。他人を慈しむ心などあるわけがないと思っていた。
それがダジュームの人間の、素直で率直なイメージだった。一晩の宿と食事と引き換えに勇者ウハネのふりをさせられているホームレスも、この魔王ハデスの言葉に度肝を抜かれたのだ。
魔王と勇者のやり取りの一部始終を見守って、どちらがが正義か分かったもんじゃない。これじゃまるで……。
このホームレスは得てして歴史の裏側の証人となってしまったが、もちろんすべて終わればウハネに始末されてしまうことなど今は思いもしていなかっただろう。
「もちろんです、魔王様。私たちはこれから起こることは、「勇者ウハネに倒された魔王」というシナリオにするつもりです。このウハネはダジュームでは救世主になるらしいので、魔王様の家族を手にかけるような残虐なことができましょうか。ミラ様とシャルム様は、このギャスが責任をもって魔王城へお連れしますゆえご安心ください」
このギャスの自分勝手な言いように、思わずハデスは口元を緩めて笑ってしまった。
このクーデターの首謀者ランゲラクにとってみれば、魔王の未亡人と娘にはまだ利用価値があるということか。
次期魔王になるベリシャスを駒として動かすには、ミラとシャルムが必要なのだろう。
百年後の休戦明け、ハデスの弔いとしてダジュームに攻め込む理由は出来上がっている。その時にミラとシャルムを復讐の象徴として祭り上げるためには、この二人の存在は不可欠だ。まあ、人間のミラは、もうそのときはすでに寿命を全うしているだろうが。
ハデスは改めてこのクーデターが良くできたシナリオだと感心する。たった百年捨てるだけで、平和主義を唱える邪魔な魔王を屠り、魔王の敵討ちという大義名分とともにダジュームを侵略できるのだ。
「ランゲラクにしてやられたわ。部下を信頼するということと、自由にやらせることは違うのだな」
もしかしたらランゲラクもこの場面をどこかで見ているかもしれない。
ハデスの言葉は、ランゲラクに対しての最大の賛辞であった。
「魔王様、モンスターとして、魔王として、最後のご決断を……」
ギャスは跪いた。
モンスターにとって、人間との共存などできるわけがなかった。
それはハデスがたまたまミラという人間の女を妻としたことで芽生えた、ほんの微かな揺らぎだったのだ。この揺らぎを、すべてのモンスターに押し付けることは到底無理なこと。
ハデスの小さな過ちは、モンスターを信じすぎたことだった。
二代目魔王ハデスは、優しすぎたのだ。
「ギャスよ。ミラとシャルムのことは、重々に頼んだぞ」
「それはわが命に代えましても……」
すでに覚悟は決まっていた。家族のために死ぬことが、自分の信念を貫くことだった。それがモンスターとしては間違いだったとしても、ハデスはハデスとして死ぬことを選んだ。
ハデスは目を閉じ、全身から静かにオーラを放出し始めた。
死へのカウントダウンである。
瞬間、水晶玉が割れて飛び散った。
「ひ、ひぃぃ!」
偽勇者と二人の護衛がハデスのオーラを感じ、腰を抜かして悲鳴を上げた。
「お前たち、この場を去ったほうがいい。巻き添えを食らいたくなければな」
ハデスの言葉に、偽勇者と護衛は一目散に会議室を飛び出した。
「お前は、行かぬのか?」
部屋にはずっと議事録を取り続けていた女が、残っていた。
赤い髪の、女だった。
「私は魔王の最期を、歴史に残す義務があります」
「そうか……」
女の背中を見ると、羽が生えていた。……妖精か?
おそらく【変化】の魔法で体を大きくしているのだろう。妖精ならば、巻き添えを食らっても死ぬことはないだろう。
ハデスのオーラが放出されていくにつれ、建物全体がねじれるような不協和音をあげていく。
なるべく静かに死のうとは思うが、怒りと後悔がそうはさせてくれなかった。
「シャルム……」
心残りはシャルムの成長を見れないことだ。
娘はこれから父のいない裏の世界で、どうやって生きていくのだろうか。ちかいうちに、母のミラとも死別することになるだろう。人間の寿命は果てしなく短いのだから。
モンスターと人間のハーフという存在が、シャルムのこれからの人生の邪魔をしないことを願う。もしシャルムが自分の血に悩むことがあるならば、迷わずこの父を恨めばいい。
モンスターにも人間にもなれず、裏の世界もダジュームも救えなかったこの情けない父を恨んで、お前は強く生きてくれ。
お前は私の希望だった。
そして、もし私の意志と願いが届いたならば、いつかお前の手で……。
モンスターと人間の……。
共存を……。
オーラが放出され切って無防備となった心臓が、細かく揺れる音が聞こえる。
ハデスはその胸に、右手を突っ込んだ。そしてその細かく動く自分の心臓を握る。
温かかった。モンスターとて、命は人間と同じなのか。
目をつむり、瞼の裏に家族の姿が浮かぶ。
このダジュームで、家族三人で暮らせる日は、もう来ない。
「ミラ……」
ミラとの出会いは、ハデスに新たな感情を生まれさせてくれた。
それは人を信じる心、そして人を守りたいと思える強さ。
ハデスはようやく、自分が何者であるか気づけたような気がする。魔王の長男として生まれ、生まれたときから決められていた魔王という立場。
自分の意志などどこにもなかった。魔王という最初から用意されたいた器に収まっただけの人生。
だが、それはミラと出会って意味が見えた。
いつかミラが言ってくれた言葉を思い出す。
『私はあなたが誰であっても、ハデスはハデスって知ってるから』
「……そうだな。私は、私だ」
ハデスは最後まで愛するミラの言葉を信じて、シャルムの未来を守るため、自分の心臓を握りつぶした。
最期の瞬間、瞼の裏に愛する妻と娘の笑顔が浮かんだ。
――ありがとう。
ハデスの最後の言葉は、声にならずにダジュームの空に消える。
魔王ハデスは、死んだ。
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