魔王ベリシャス。
この世界に魔王の名を知る者はどれくらいいるだろうか。
ダジュームのモンスターたちも魔王の存在には敬意と畏怖を抱いているが、この名を知る者はほとんどいまい。そもそも魔王に謁見することさえ、生涯ないだろう。
いや、ベリシャスという名を知っていたとしても、生への欲求があるならばその名を口にするなどできるわけがあるまい。モンスターとはいえ、己の命は惜しいはずだ。
――魔王様のことを名前で呼ぶことなどできるものか。
これがダジュームのモンスターにおける魔王への忠誠の証であった。
魔王の直近の参謀であり右腕のランゲラクでさえ、魔王を呼ぶときは「魔王様」と呼ぶ。
ダジューム各地に散っている四天王も、もちろんそれが魔王に対する当たり前のことだと理解している。
魔王のことを名で呼んではいけないなんて決まりが明文化されているわけではなく、誰かに教えられたわけでもない。モンスターはみんな、本能で分かっているのだ。魔王を名前で呼ぶことなど、恐れ多いと。
モンスターの間にもこんな暗黙の了解ともいえる人間臭い習わしがあるとは、面白いものである。
誰もその名を呼ばないがゆえ、その魔王の名を知る者は、ダジュームでも両手で数えても足るくらいしかいないのだ。
魔王は魔王。
それだけは絶対で、揺るぐことのない象徴。
ダジュームにおける魔王の存在は、人間にとってはもちろん、モンスターたちにとっても遥か彼方、天上で崇高な絶対者だった。
真っ赤に血塗られた魔王城の周りは、血が流れる堀に囲まれていた。地上から見上げても、魔王の部屋がある天守は真っ黒な雲に覆われて目視することはできない。
ダジュームのどこかにあるこの魔王城に入ることができるのは、モンスターでもごく僅かな魔王軍直属の者たちだけに限られている。先に名前が出た参謀ランゲラク、四天王、そして数人の世話係くらいのものだった。
そんな別格であり孤独な魔王ベリシャスは今朝から、魔王城の天守にある魔王の座にて来客をもてなしていた。
魔王が直々に客との二人きりでの謁見は珍しいことである。
その相手のことは誰にも知らされておらず、詮索もできるはずがなかった。
その謁見が終わるのを魔王の座の扉の前で、じっと待機しているモンスターがいる。
モンスターゆえ、見た目で年齢は測れない。とは言うものの、見た目は二十歳そこそこの人間の青年に見えるが、実のところは数百歳というのだから、年齢というただ積み重ねただけの数字に意味など求めるのは野暮というものだ。
服装は人間界ではフォーマルとされているスーツを着こなし、髪もオールバックに整えている。
彼は、いつか殺した大富豪の人間の家にいた執事という男の格好の真似をしていた。
執事というのは主人に仕えるジョブだということを聞き、それならば魔王に仕える自分にうってつけだとそっくりの服装を誂えさせたのだ。
このモンスターの名は、ジェイド。
魔王ベリシャスの側近であり、身の回りの世話をするモンスターであった。
ジェイドは先の理由から自らを執事と名乗っているが、仕事内容は秘書と呼んだほうが適切かもしれない。魔王から頼まれた仕事や、魔王城の雑務をこなしたり、ダジュームの情報を仕入れては魔王に報告することがジェイドの主な仕事であった。
「ジェイド」
部屋の中から己の名を呼ぶ声が聞こえ、跪いて待機していたジェイドは慌てて直立する。
「はい、魔王様」
「入ってよいぞ」
「はっ」
ジェイドは扉の前で深く一礼し、部屋に入る。
いつもこの部屋に入る一歩目は緊張でなかなか足が震える。どちらの足から入るのが失礼に当たらないかを真剣に考えた時期があったくらいで、今は利き足の右足から入ることにしていた。
部屋に入ると、すかさず跪き、もう一度頭を下げる。すでに来客の姿はなかった。
いつもとは違う、甘い匂いを感じた。さっきまでの来客の匂いだろうか。モンスターにしては甘美すぎる。
この段階でまだ魔王の姿は見ていない。ジェイドの意思で魔王を見ることなど、無礼に値するからだ。
「そう畏まるな。お前はいつになったら慣れるのだ。顔を上げ」
魔王ベリシャスの言葉に、ジェイドはようやく顔を上げる。
魔王は玉座に座っていた。
その姿は漆黒のマントを身にまとい、その下にはきらびやかな鎧を身につけていた。顔には仮面をつけている。その面から覗く眼光にジェイドは金縛りにあったように動けなくなる。この緊張感はいつまで経っても消えることはないだろう。
仮面の下の魔王の素顔は、ジェイドとて見たことがない。
いや、四天王や参謀でさえ見たことがないのではないだろうか。
すなわちこのダジュームで魔王の素顔を知るものはただ一人いないということである。
「何か御用でしょうか」
扉の前でひざを床に擦り付けたまま、ジェイドは尋ねる。
部屋にはすでに来客はいなかった。ここから直接ワープの魔法で出ていったに違いない。
ジェイドは来客に関する詮索をするつもりはなかったが、部屋に残るかすかな甘い香りが、その人物が女であったのだろうと推測をつけた。
少なくとも、ジェイドが知るモンスターの幹部で、この香りを残すような者はいない。自分に特徴的な香りをつけることなど、モンスターにとっては致命的である。そこに存在を残すことに利点など何もないからだ。
もちろんジェイドはこの香りのことを、魔王に聞く権利も度胸もない。
「君に頼んでいた件のことだけどね」
魔王はそう言いながら玉座にもたれかかるように、身を沈めた。
ジェイドもこの件で呼ばれたのであろうことは、うすうす気づいていた。
さっきの来客と関係あるのかとも考えたが、それはありえない。
この件は魔王とジェイドだけの秘密なのだから。
「ジェイド、こっちへ」
魔王は軽く手招きをして、ジェイドを呼び寄せる。
同じ部屋にいるだけでもその覇気は、ジェイドの本能に恐怖を植え付けてくる。今も油断するとそのオーラで震えそうになっているのを、必死で我慢しているくらいだった。
ジェイドは畏まりながら、魔王に近づいた。
「あの件のことだけどね、ランゲラクに気づかれたかもしれない」
「え?」
ジェイドは魔王の言葉に、つい驚きの表情を見せてしまった。
いつも冷静に、魔王の前では感情を出さないでおこうと肝に命じていたはずなのに。
そう考えるうちに、ジェイドはポーカーフェイスが特徴になってしまっていた。感情を顔に出すことなど、迂闊で幼稚なことのように思われた。
「この数日も、そのような気配はなかったと思われますが……」
まさかこの部屋での会話が外部で聞かれているようなことはあり得ないが、魔王は小声でジェイドにささやいた。
ランゲラクというのは魔王の参謀であり、実質魔王軍のナンバー2である。
「いや、確実なことではないし、気づかれたからといってランゲラクが私に何かを言ってくるわけじゃないからね。私が頼んだ手前、君に迷惑がかかるといけないと思ってね」
「いえ、そんな。お気遣いいただき、恐縮です」
再びジェイドは頭を下げる。
魔王が自分を信頼してこの仕事を依頼してくれたことに甚だ感激したジェイド。
この仕事の内容は誰にも知られないように動いてきたつもりだった。それは参謀のランゲラクにも、だ。
魔王直々の仕事に失敗は許されないが、ここ数日の己の行動を振り返ってみる。
(まさか、尾行されていた……?)
ジェイド自身、心当たりはまったくなかった。
ランゲラクが直々に自分を尾行してくるはずはないが、だとしてもその尾行に気づかなかったとなると、相当な手練れである可能性がある。
ジェイドも魔王軍の中では四天王に次ぐ実力があると自負している。
仕事柄、【隠密】や【監視】のスキルをもっているし、その点だけではランゲラクにも劣っているとは思っていない。
これは慢心ではなく、魔王からも認められているからこその、この役割を担っているのだ。
(ランゲラク様の手の者に、私を尾行できるモンスターがいるとは思えないが?)
うつむいたまま熟考するジェイドの肩に、魔王がそっと手を置く。
「詳しくは言えないが、あくまで可能性の話だ。ランゲラクは何を考えているのかわからないのでな。もし、お前がやりにくい事態が起きたら、無理はしなくてもいい」
「いえ、私のことなど……。必ずや魔王様のご意思のもとに!」
魔王に気を使われるというのは、ジェイドにとっては失態であった。
このような任務に手間取っているようでは、執事は務まらない。
魔王は自分を信頼して、このような隠密任務を託してくれたのだ。
ランゲラクが直接邪魔をしてくるつもりはないだろうが、任務に介入しようとしているのならば気を付ける必要がある。
(これからはもう少し用心すべきだな)
尾行は当然のこと、ランゲラクの動きにも注意するべきだ。
決して参謀のランゲラクに裏切りの恐れがあるというわけではない。彼も参謀という立場上、自分に内緒でジェイドが動いていたら疑うこともあるだろう。
魔王にとってジェイドは一番身近で、信頼に足る存在だった。
魔王がこの部屋から出ることはなく、すべての世話はこのジェイドが行っていた。
魔王はあの玉座から離れることはない。
ダジュームにおけるモンスターたちの情勢を把握し、指揮するのが魔王ベリシャスの仕事である。
それゆえ魔王に頼まれて、ジェイドがこうやって独自に動くことは多々あるのだ。
ジェイドにとって、魔王に世界の状況を報告することは最優先の仕事でもあったのだ。
「君には苦労をかけるね。もし、何かあれば言ってくれ」
「ありがとうございます。必ず、ご期待に添えるよう、この命に代えても」
一歩下がり、再び頭を下げて部屋から退出するジェイドを見送る魔王ベリシャス。
「はぁ」
部屋から遠ざかる足音を聞き届け、魔王は仮面の下で一つため息をこぼした。
ダジュームを統べようとしている魔王らしからぬ反応だと思ったが、一人のときくらい不満がこぼれても仕方がない。
ベリシャスはいつまでも自分には心を開いてくれない部下に、孤独を感じていた。
参謀のランゲラクはベリシャスの父である先代の魔王から仕えてくれている重鎮だ。魔王に対して馴れ馴れしくできないことは、百も承知である。四天王たちも、心に壁があるのが分かっている。
もちろん魔王に対する忠誠を誓っているからこそ、下手はできないという恐怖でそうなってしまうのは仕方がないことだ。
かといって自分から壁を取り払おうとへりくだることはできない。
それは魔王が魔王であるための定めである。
自分が魔王である以上は、誰からも心を開かれることはない。
そして、その名を呼ばれることもない。
魔王ベリシャスは、若い執事が自分の期待に応える仕事をしてくれることと、かすかに鼻孔をくすぐる甘い残り香に、ひとつの希望を感じていた。
魔王が希望を抱くという表現は、適さないかもしれない。
だが魔王はその希望が叶うことを願い、仮面の下で小さく笑った。
「兄さん、もうすぐだよ……」
仮面の中から聞こえたその言葉は、闇の中に消えていった。
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