「どこに行っちゃったのよ……」
カリンはキッチンのカウンターに両肘をついて、もう何度目かわからない独り言をつぶやいた。
リビングを見渡しても、穴が開いたみたいにぽかんと空虚な空間が広がっている。
このダジュームに転生してきて、長く一緒に暮らした家族がいなくなって早一か月が経っていた。
カリンにとっては、用意する食事の量が一人分減ったくらいでやることに変わりはなかったが、失ったものは決して小さくなかった。
このダジュームで生きていくうえで支えとなった家族、ケンタがいきなりいなくなった。
ある日突然に、である。
シャルムも理由に心当たりはないと言うし、シリウスも自分が気づいていればと慙愧の念にかられていた。
もちろんカリンも、いきなりケンタがいなくなるなんて思いもせずに、信じられなかった。
いつもそばで冗談を言うケンタがいるようで、だけど誰もいなくて、一か月たった今、ようやく現実を受け止められた。
ケンタはいなくなったのだ。
まるで神隠しのような出来事だったが、何か事件に巻き込まれたのではないのは、部屋にケンタの腕輪が残されていたからだった。
黒と白の二つの腕輪を残し、ケンタは自分の意思でこのハローワークを出ていったのだ。
あの朝のことは、今でも覚えている。
このハローワークで最初に起床するのはカリンだった。
裏山に薪拾いに行くケンタのためにお弁当を作るためだ。
ケンタが拾ってくる薪をかまどにくべ、魔法で火をつける。昨晩用意して寝かせておいたパンの生地をかまどに入れ、ふっくら焼き上げる。
キッチン中にパンの焼きあがった香りが漂い始めたころ、ホイップがふらふらと起きてくる。
「今日もいい匂いですね~」
そんなホイップの朝の挨拶に、カリンはにっこりとほほ笑むところから、ハローワークの朝は始まるのだ。
そのあとは意外と朝が早いシャルムが下りてきて、シャワーを浴びる。
カリンとホイップが朝食の準備を終えたころ、ようやく男たちが目をこすりながらやってくるのだ。
朝が弱いのは見た目に寄らずシリウスのほうで、むしろケンタはいつも朝からしっかりしていた。
「いただきます!」
全員での朝食はハローワークでの日課になっていた。ここでみんながいろんな話をして、笑いが絶えない食事を、カリンはとても好きだった。
昼食はみんな時間がまちまちだし、外出していることもあって全員はそろわない。
夕食はシャルムが酔っぱらってグダグダになるので、会話にならないことが多い。
だけど毎日の朝食だけは、みんながこれから始まる新しい一日に向けて、前向きでいられた。
そんなみんながそろう普通の朝食の時間が、カリンは大好きだった。
大好きだった――。
「ケンタさん……」
ケンタがいなくなり、シリウスは毎朝、裏山までランニングをするようになった。
額の汗をぬぐいながら、山の入り口をしばらく見つめていた。
いつかひょっこりと、その山から大量の薪をかついでケンタが出てきそうな気がする。
「帰ってきてくださいよ、ケンタさん……」
あの日、朝起きると隣のベッドにケンタはいなかった。
いつもは朝の弱いシリウスは、ケンタにたたき起こされて朝食に連れていかれるのだが、その日はホイップが部屋の扉をたたく音で目が覚めた。
なんで今日は起こしてくれなかったんだと、目をこすりながら一階に下りると、リビングにもケンタはいなかった。
もう訓練で裏山に行ったのかと思ったが、カリンに「ケンタくんは?」と聞かれてそうではないと知った。
それからもう一度部屋に戻ってみると、テーブルにケンタの腕輪が置かれていることに気づいたのだ。
シリウスもカリンも、何が起こったのかは理解できなかった。
シャルムとホイップも一緒に、事務所内や近辺をくまなく探したが、ケンタはどこにもいなかった。
昼過ぎに再び全員で集まってみて、ケンタが夜中のうちにここを出ていったんだという結論に達した。
シリウスは隣で寝ていて、まったく気づかなかったことを後悔した。
自分さえ気づいていればこんなことにならなかった。止めることができた。
カリンやシャルムも責任はないと言ってくれたが、間際に止めることができたのは自分しかいなかったという責任がシリウスを苦しめた。
衝動的なのか計画的なのかはわからないが、誰もケンタの行動を予想すらできていなかった。
なぜこのタイミングで? なぜ出ていく必要があった?
前日の夕食も、シリウスには何ら変わりがないと思われた。
いや、誰にもその悩みは見せないようにケンタは自分の胸の中だけに閉じ込めて苦しんでいたのだとしたら……。
そうだとしても、一番気づいてやるべきだったのは自分。そうシリウスは自分を責め続けた。
思い返せば、このダジュームに来てからはずっとケンタに励まされ続けてきた。
「ほんとお前は感情で動きすぎなんだよ!」
いつもケンタにはそんな風に怒られていた。慎重すぎるケンタに言われても、シリウスはちっとも真に受けてはいなかったが、いつからか自分が無暗無鉄砲に行動していることを自覚できるようになった。
最初の訓練も、あの勇者との戦いも、一角鳥との戦いも、いつもケンタがそばにいて助けてくれた。
今の自分があるのは、すべてケンタのおかげだった。
いつかケンタが言っていた言葉を、シリウスは心に刻んでいた。
「俺たちは家族だから」
元の世界では会うことがなかったアイソトープの三人は、こうやってひとつ屋根の下で暮らしていけたのもあの言葉のおかげだ。
家族に対してつらい思い出しかなかったシリウスには、なおさらのことだった。
死んでしまって転生してきたからこそ、ようやく本当の家族に出会えた。
なのに――。
「なんで家族がバラバラにならなくちゃいけないんですか……」
朝の裏山では、誰もその問いに答えてくれなかった。
ホイップはケンタの異変に気付いていた。
あのケンタがいなくなった日の前日の夕食。ケンタはいつもより、ちょっとだけテンションが高かったような気がする。
今考えれば、という範囲ではあるが、どこかケンタがいつもと違ったような気はしていたのだ。
もちろん、そのときには指摘することも、心配することもなかった。
きっと自分だけ仲間外れにされてアレアレアのランチに連れて行ってもらえなかったことをひがんでいるのだろうと、その程度にしか考えていなかった。
あくまでそれが異変だったと分かったのは、翌朝のことだった。
これを後悔と言わずして、なんと言うのだろう。さすがのホイップも落ち込んでしまった。
「こんなお別れは、早すぎますよ。ケンタさん……」
いつもキラキラとはばたかせている羽も、しばらくは重かった。
妖精という種族は、人間よりも寿命はずいぶんと長い。モンスターよりも長生きする妖精もいるくらいで、その命は永遠といっても過言ではないくらいだった。
それゆえ妖精は、このダジュームの歴史を語り継いできた。語り部として妖精たちは、この世界の変遷と共に生きてきたのだ。
ホイップも、これまで何人もの人間の死を見てきた。
人間とは簡単に死ぬ種族だ。ホイップも仲よくしていた大切な人間たちが、寿命で死んでいくことに悲しみもした。人間は自分を置いて、すぐに死んでしまうのだ。
だがいつか輪廻転生という概念があるということを耳にして、生と死はつながっているのだと理解して、そう悲しむことではないと思い始めた。
そう考えないと、大切な人間たちの死に際を乗り越えることはできなかったからだ。
自分さえ生きていれば、大切な人間もいつか蘇って、また違う人間として会うことができるかもしれない。生まれ変わった姿で自分の前に現れる時を、待っていてあげられる。
死んでいった人間の人生を心に刻み、伝えていく。
それは妖精にしかできないことであった。
とある事情で迷い込んだハローワークでシャルムに助けられたのが、ここで働くきっかけとなった。
きっとこの人間も、自分より先に死んでしまう。
助けられた恩を返すために、ホイップはハローワークで雑用として働くことに決めたのだ。
ハローワークにいると、さらにアイソトープという変な種族が集まってくる。
どこか別の世界で死んで、その生まれ変わりだというアイソトープは、人間よりもさらにひ弱だった。一人では何もできない存在に、ホイップは親心のようなものを抱くようになってくる。
すぐに死んでしまうアイソトープだが、できれば死んでほしくない。そのためにできるだけサポートしてやりたい。
ケンタに対しても、その気持ちは間違いなくあった。むしろ、落ちこぼれ程かわいく見えて、言葉は厳しくなりがちだったが、ケンタのことは気に入っていた。
ケンタもいつか、自分より先に死ぬことは分かっている。
それまでケンタの第二の人生を見届け、そして伝えていくことが妖精の役目だった。
だが、ケンタはいなくなった。
それは死よりも、ホイップの心を痛めた。
「まだケンタさんのこと、ほとんど知りませんよ……」
ケンタというひとりのアイソトープがいたという歴史を、ホイップはまだ語るほど知らない。
これは妖精として、語り部として、非常につらいことであった。
もっとケンタのことを知っておけばよかった。もっと話をすればよかった。異変に気付いてあげればよかった。
ホイップもカリンやシリウスと同じく、喪失感にまみれていたのだ。
これは妖精としての本能ではなく、ホイップの親心を超えた、小さな恋心だったのかもしれない。
遠ざかっていくケンタの姿が見えなくなっても、シャルムは窓の外を見つめていた。
「バカ……」
月の明かりだけが差し込む部屋で、小さくつぶやいた。
窓にもたれかかり、眼鏡をはずすシャルムの瞳は何を見ていたのだろうか。
ケンタが出ていった理由は、想像にたやすかった。
ここにいては、みんなに迷惑がかかると考えてのことだろう。
自分がモンスターに狙われていることを知って、もしかしたらこのハローワークが狙われるかもしれない。責任感が強く思いやりがあるケンタがそう考えるのは当然のことだった。
もちろん、止めることはできた。
今からでも力づくで連れ戻すことも可能だ。
こんな夜中にケンタが向かう場所も、アレアレアくらいしかないと分かっている。
だが、シャルムはそうしなかった。
ただ、自分の意思でハローワークを離れていくケンタを、見つめているだけだった。
明日の朝、カリンやシリウスはこのことを知ったら取り乱すだろう。
シャルムは知らないふりをするつもりだったし、ケンタが魔王軍のモンスターに襲われたことも言うつもりもなかった。
「すべては、計画通りよ。ベリシャス……」
部屋のカーテンを閉めて真っ暗になった部屋で、シャルムが笑った。
第六章「魔王は闇に嗤う」 完
読み終わったら、ポイントを付けましょう!